2011年02月11日

堕落論 渋谷統一教会

第二章 堕 落 論

第一節 罪の根
第二節 堕落の動機と経路
第三節 愛の力と原理の力および信仰のための戒め
第四節 人間堕落の結果
第五節 自由と堕落
第六節 神が人間始祖の堕落行為を干渉し給わなかった理由
人間はだれでも悪を退け、善に従おうとする本心の指向性をもっている。しかし、すべての人間は自分も知らずにある悪の力に駆られ、本心が願うところの善を捨てて、願わざる悪を行うようになるのである。このような悪の勢力の中で、人類の罪悪史は綿々と続いてきた。キリスト教ではこの悪の勢力の主体をサタンと呼ぶのである。そして、人間がこのサタンの勢力を清算できないのは、サタンが何であり、またそれがどうしてサタンとなったかという、その正体を知らないからである。それゆえに、人間がこの悪を根こそぎ取り除き、人類の罪悪史を清算して、善の歴史を成就するためには、まず、サタンがサタンとなったその動機と経路、およびその結果を明らかに知らなければならない。つまり、このような問題を解明するために、我々は堕落論を知らなければならないのである。
第一節 罪 の 根
(一)生命の木と善悪を知る木
(二)蛇の正体
(三)天使の堕落と人間の堕落
(四)善悪の果
(五)罪の根

今まで人間の中に深く根を下ろし、休むことなく人間を罪悪の道に追いこんできた罪の根がいったい何であるか、この問題を知る者は一人もいなかった。ただキリスト教信徒のみが、聖書を根拠として、人間始祖アダムとエバが善悪を知る木の果を取って食べ、それが罪の根となったということを漠然と信じてきたのである。しかし、善悪を知る木の果が、文字どおり木の果実であると信ずる信徒たちと、聖書の多くの部分がそうであるように、これもまた、あるものに対する象徴、あるいは比喩に違いないと信ずる信徒たちとが、互いにその意見を異にし、それぞれに様々な解釈をしているだけで、今もってなお、これに対する完全な解明がなされていないというのが実情である。

(一)生命の木と善悪を知る木
多くのキリスト教信徒たちは今日に至るまで、アダムとエバが取って食べて堕落したという善悪を知る木の果が、文字どおり何かの木の果実であると信じてきた。しかし、そうであるなら、人間の父母としていまし給う神が、何故その子女たちが取って食べて堕落する可能性のある果実を、このように「食べるに良く、目には美しく、賢くなるには好まし」くおつくりになり(創三・6)、彼らがたやすく取って食べられる所に置かれたのであろうか。
かつてイエスは、「口にはいるものは人を汚すことはない。かえって、口から出るものが人を汚すのである」(マタイ一五・11)と言われた。まして、食物がいかにして人間を堕落させることができるであろうか。人間の原罪は、あくまで人間の祖先から遺伝されてきたものであって、食物が原罪を遺伝するその要因とはなり得ないのである。
なぜなら遺伝は、ただその血統を通じてのみなされるからである。ゆえに、ある一人の人間が、何か物を食べたなどということによって、その結果が子孫代々にまで遺伝されるはずはない。ある信徒たちは、神がそのみ言に対して人間が従順であるかどうかを試すために善悪を知る木の果を創造し、それを食べてはならぬと命令されたのであると信じている。しかし、全き愛の方であられる神が、人間に死を伴うような方法でもって、かくも無慈悲な試みをされたとは到底考えることができない。アダムとエバは、彼らが善悪の果を取って食べる日には、必ず死ぬであろうと言われたみ言のように、それを食べるときには死ぬということを知っていたはずである。それにもかかわらず彼らはこれを取って食べたのである。飢えてもいなかったアダムとエバが食物などのために、死を覚悟してまで、かくも厳重な神のみ言を犯したとは到底考えられないのである。それゆえに、善悪を知る木の果は何かの物質ではなく、生死にかかわることさえも問題視しないほどの強力な刺激を与えることのできる、他の何物かであるに相違ない。さて、善悪を知る木の果が物質でないとすれば、それは他の何物かを比喩したものであると見なければならない。聖書の多くの主要な部分が、象徴とか比喩でもって記録されていることは事実である。もしそうだとすれば、なぜ善悪の果だけを無理に文字どおりに信じなければならないのであろうか。今日のキリスト教信徒たちは、当然のことながら聖書の文字のみにとらわれた過去の固陋にして慣習的な信仰態度を捨てなければならない。では善悪を知る木の果を比喩であると見るならば、それは果たして何を意味するのであろうか。我々はこれを解明する方法として、創世記二章9節の善悪を知る木と共にエデンの園にあったという生命の木が何であるかをまず調べてみることにしよう。この生命の木が何であるかが明らかになれば、これと共にあったという善悪を知る木が何であるかということも、明確に知られるようになるからである。

(1) 生 命 の 木
聖書のみ言によれば、堕落人間の願いは生命の木の前に行き、生命の木を完成するところにあるという。すなわち、箴言一三章12節を見れば、旧約聖書において、イスラエル民族も生命の木をその願望の対象として眺めていたし、黙示録二二章14節の記録を見ると、イエス以後、今日に至るまでのすべてのキリスト教信徒たちの願望もまた、ひたすらに生命の木に至ろうとするところにあるということが分かるのである。このように、堕落人間の究極的な願望が、生命の木であるということを見れば、堕落前のアダムの願望も、生命の木であったに相違ないのである。なぜかといえば、復帰過程にいる堕落人間は、元来堕落前のアダムが完成できなかったその願いを、再び成就しなければならないからである。
創世記三章24節を見れば、アダムが罪を犯したために、神は炎の剣をもって生命の木の道をふさいでしまわれたと記されている。この事実を見ても、堕落前のアダムの願望が、生命の木であったということを知ることができる。しかし、アダムは堕落することによって、彼の願望であったこの生命の木に至ることができず、エデンの園から追放されたので、この生命の木は、その後すべての堕落人間の望みとして残されてきたのである。
では、完成するそのときを仰ぎ見ながら成長していた未完成のアダムの願いであった生命の木とは、いったい何であったろうか。それは、彼が堕落せずに成長して、神の創造理想を完成した男性になるということでなければならない。したがって、我々はここにおいて、生命の木とは、すなわち、創造理想を完成した男性である、ということを知ることができる。創造理想を完成した男性とは、すなわち、完成したアダムを意味するがゆえに、生命の木とは、すなわち、完成したアダムを比喩した言葉であるということを知ることができるのである。
もしアダムが堕落しないで、創造理想を完成した男性となり、生命の木を完成したならば、彼の子孫たちもみな、生命の木として完成し、地上天国を成就したはずであった。しかし、アダムが堕落したために、神は生命の木に行くその道を、回る炎の剣をもってふさいでしまわれたのである(創三・24)。ゆえに生命の木は創造理想を復帰しようとする堕落人間の願いとして、残されなければならなくなったのである。しかも、原罪をもつ堕落人間は、彼ら自らの力をもってしては、創造理想を完成した生命の木になることはできない。それゆえ、堕落人間が生命の木となるためには、ロマ書一一章17節に記録されているみ言のように、創造理想を完成した一人の男性が、この地上に生命の木として来られ、すべての人をして彼に接がしめ、一つになるようにしなければならない。このような生命の木として来たり給うたお方が、すなわちイエスであったのである。それゆえに、箴言一三章12節に記されている旧約時代の聖徒たちが期待していた生命の木とは、まさしくこの初臨のイエスであったということを、我々は知ることができるのである。
しかしながら、創世記三章24節に明示されているように、神が回る炎の剣をもって、生命の木の前に行くアダムの道をふさいでしまわれたので、これが取り除かれない以上、人間は、生命の木の前に出ていくことができないのである。したがって、使徒行伝二章3節に記録されているように、五旬節の日に、聖徒たちの前をふさいでいた舌のごとき炎、すなわち火の剣が分かれて現れたのち、初めて聖霊が降臨し、全人類が生命の木であられるイエスの前に行き、彼に接がれるようになったのである。しかしながら、キリスト教信徒たちは、生命の木なるイエスに、霊的にのみ接がれるようになったので、いかにイエスを熱心に信ずる父母であるとしても、また再び贖罪を受けなければならない罪悪の子女を生まなければならなくなったのである。このような事実から見るとき、いかに信仰の篤い信徒といえども、アダムから遺伝されてきた原罪を、今もなお取り除くことができないままに、これをまた、そのまま子孫へと遺伝しているという事実を、我々は知っているのである(前編第四章第一
節)。そのために、イエスは地上に生命の木として再臨され、すべての人類を、再び接ぐことによって、原罪まで贖罪してくださる摂理をなさらなければならない。黙示録二二章14節のみ言のごとく、新約聖徒たちが再び、生命の木を待望するようになったその理由は、実にここにあったのである。したがって、この黙示録二二章14節に記録されている生命の木は、まさしく再臨のイエスを比喩した聖句であるということが分かる。
我々は、ここにおいて、神の救いの摂理の目的は、エデンの園で失われた生命の木(創二・9)を、黙示録二二章14節の生命の木として復帰なさろうとするところにあった、と見ることができるのである。アダムが堕落して、創世記二章9節の初めの生命の木を完成できなかったので、この堕落した人間を救うために、イエスは黙示録二二章14節の、後の生命の木として再臨されなければならない。イエスを後のアダムという理由は実にここにあるのである(コリント・一五・45)。

(2) 善悪を知る木
神はアダムだけを創造したのではなく、その配偶者としてエバを創造された。したがって、エデンの園の中に創造理想を完成した男性を比喩する木があったとすれば、同様に女性を比喩するもう一つの木が、当然存在してしかるべきではなかろうか。これが生命の木と共に生えていたと記録されている(創二・9)善悪を知る木であったのである。したがって、善悪を知る木というその木は、創造理想を完成した女性を象徴するものである。ゆえに、それは完成したエバを例えていった言葉であるということを知ることができるのである。
聖書に、イエスを「ぶどうの木」(ヨハネ一五・5)、あるいは「オリブの木」(ロマ一一・17)に例えられているように、神は人間堕落の秘密を暗示なさるときにおいても、完成したアダムとエバとを、二つの木をもって比喩されたのである。

(二)蛇の正体
エバを誘惑して、罪を犯させたものは蛇であったと聖書に記録されている(創三・4、5)。では、この蛇はいったい何を意味しているのであろうか。我々は創世記三章に記録されているその内容から、この蛇の正体を探ってみることにしよう。
聖書に記録されている蛇は、人間と会話を交わすことができたと記されている。そして、霊的な人間を堕落させたという事実を見れば、これもまた、霊的な存在でなくてはならないはずである。しかも、この蛇が人間に善悪の果を食べさせまい、と計らわれた神の意図を知っていたという事実から見れば、それはなお一層霊的存在でなければならないということになるのである。
また、黙示録一二章9節を見ると、「巨大な龍、すなわち、悪魔とか、サタンとか呼ばれ、全世界を惑わす年を経たへびは、(天より)地に投げ落され」たと記録されているのであるが、この古い蛇が、すなわち、エデンの園においてエバを誘惑したその蛇であるということはいうまでもない。しかも、この蛇が天より落とされたと記されているのを見ると、天にいたその古い蛇とは、霊的存在物でなくて何であろうか。また、この蛇を悪魔でありサタンであると呼んでいるが、このサタンは人間の堕落以後今日に至るまで、常に人間の心を悪の方向に引きずってきたものであるがゆえに、まさしくこれは霊的存在でなくてはならないのである。このように、サタンが霊的存在であるということが事実であるならば、サタンとして表示されているこの蛇が、霊的存在であるということはいうまでもないことである。聖書に表れているこのような事実から推測して、エバを誘惑した蛇は動物ではなく、ある霊的存在であったということを、我々は知ることができるのである。
それでは、このように蛇という比喩で呼ばれる霊的存在が、果たして創世以前から存在していたのであろうか、さもなければ、これも被造物の中の一つであるのかということが問題となるのである。もし、この蛇が創世以前から神と対立する目的をもって存在していたとすれば、被造世界において展開されている善悪の闘争も不可避なものとして永続するほかはない。したがって、神の復帰摂理は、結局無為に帰してしまわざるを得ないであろうし、あらゆる存在が神お一人によって創造されたという一元論も崩壊してしまうのである。ゆえに、蛇として比喩されているこの霊的存在は、元来善を目的として創造されたある存在が、堕落してサタンとなったものであると見なさなければならないのである。
では、神から創造された霊的存在であって、人間と会話することもでき、神の目的を知ることもでき、また、その所在は天にあり、そして、それがもし堕落して悪の存在に転落した場合には、時間と空間を超越して人間の心霊を支配し得る能力をもつ、そのような条件を備えた存在とは、いったい何なのであろうか。こう考えてみると天使以外にこのような条件を具備した存在はないので、まずこの蛇は、天使を比喩したものであると見ることができるのである。そこで、ペテロ・二章4節を見ると、神は罪を犯したみ使いたちを許し給わず、地獄に投げ入れられたと記録されているのである。このみ言は、天使こそが人間を誘惑して罪を犯させたその蛇の正体であるという事実を、決定的に立証しているのである。
蛇はその舌先が二つに分かれている。したがって、それは一つの舌をもって二つの言葉を話し、一つの心をもって二つの生活をする者の表象となるのである。また、蛇は自分の食物に体を巻きつけて食べるが、これは自己の利益のために他を誘惑する者の表象となっている。それゆえに、聖書は人間を誘惑した天使を蛇に例えたのであった。

(三)天使の堕落と人間の堕落
既に、我々は人間を誘惑して堕落させた蛇が、天使であったということ、また、この天使が罪を犯し堕落することによってサタンとなったという事実を知った。ではつぎに、天使と人間がいかなる罪を犯したかということについて調べてみることにしよう。

(1) 天 使 の 犯 罪
ユダ書6節から7節に「主は、自分たちの地位を守ろうとはせず、そのおるべき所を捨て去った御使たちを、大いなる日のさばきのために、永久にしばりつけたまま、暗やみの中に閉じ込めておかれた。ソドム、ゴモラも、まわりの町々も、同様であって、同じように淫行にふけり、不自然な肉欲に走ったので、永遠の火の刑罰を受け、人々の見せしめにされている」と記録されているのを見ると、我々は天使が姦淫によって堕落したという事実を知ることができるのである。
しかしながら、姦淫というものは、一人では行うことができない。したがって、エデンの園で行われた天使の姦淫において、その対象となった存在が、何であったかということについて知っておく必要がある。これを知るために、我々はまず、人間がいかなる罪を犯したかということについて調べてみることにしよう。

(2) 人 間 の 犯 罪
創世記二章25節を見れば、罪を犯す前、アダムとエバは、裸でいても恥ずかしく思わなかった。しかし、彼らが堕落したのちには、裸でいることを恥ずかしく思い、無花果の葉をもって下部を覆ったのである(創三・7)。もし、善悪の果というある果実があって、彼らがそれを取って食べて罪を犯したのだとすれば、恐らく彼らは手か口を隠したはずである。なぜかといえば、人間は恥ずかしい所を隠すのがその本性だからである。しかるに彼らは、手や口を隠したのではなく、下部を隠したのである。したがって、この事実は彼らの下部が科となったために、それを恥ずかしく思ったということを表しているのである。ここから、我々は彼らが下部で罪を犯したという事実を推測することができるのである。
ヨブ記三一章33節には、「わたしがもし(アダムのごとく)人々の前にわたしのとがをおおい、わたしの悪事を胸の中に隠したことがあるなら」と記録されている。そうしてアダムは、堕落したのち、その下部を隠したのであった。この事実はとりもなおさず、アダムが覆ったその下部が科となったということを物語っている。それでは、アダムの下部がなぜ科となったのであろうか。それは、いうまでもなく、アダムがその下部で罪を犯したからである。
人間が堕落する以前の世界において、死ぬということを明確に知っていながら、しかも、それを乗り越えることのできる行動とは、いったい何であったのだろうか。それは、愛以外の何ものでもない。「生めよ、ふえよ」(創一・28)と言われた神の創造目的は、愛によってのみ完成することができるのである。したがって、神の創造目的を中心として見るとき、愛は最も貴い、そして最も聖なるものであったのである。しかし、それにもかかわらず、人間は歴史的に愛の行動を、何か卑しいもののように見なしてきたというのも、それが、堕落の原因となっているからである。ここにおいて我々は、人間もまた、淫乱によって堕落したという事実を知ることができる。

(3) 天使と人間との淫行
我々は、既に述べたように、人間が天使の誘惑に陥って堕落したという事実、人間も天使もみな淫行によって堕落したという事実、その上にまた、被造世界においては、霊的存在であって、お互いにある情的関係を結ぶことのできる存在とは、人間と天使以外にはないという事実などを結びつけてみるとき、人間と天使との間に淫行関係が成り立ったであろうということは、容易にうなずくことができるのである。ヨハネ福音書八章44節には「あなたがたは自分の父、すなわち、悪魔から出てきた者であって、その父の欲望どおりを行おうと思っている」と記録されている。そして、黙示録一二章9節には、悪魔はすなわち、サタンであり、サタンはすなわち、人間を誘惑した古い蛇であると明示しているのである。このような聖句に基づいてみるとき、人間は悪魔の子孫であり、したがって、サタンの子孫であるがゆえに、結局蛇の子孫であるということになるのである。では、人間はいかなる経過を経て、堕落した天使、すなわちサタンの子孫となったのであろうか。これは、人間の祖先が天使と淫行を犯すことによって、すべての人間がサタンの血統より生まれるようになったからである。このように、堕落した人間は神の血統ではなくサタンの血統をもって生まれたのでロマ書八章23節には「御霊の最初の実を持っているわたしたち自身も、心の内でうめきながら、子たる身分(実子でなく養子として)を授けられること、すなわち、からだのあがなわれることを待ち望んでいる」と記録されているのである。また、マタイ福音書三章7節には、洗礼ヨハネがユダヤ人たちを見て、「まむしの子」、すなわちサタンの子孫であると叱責し、また、マタイ福音書二三章33節においてイエスがユダヤ人たちを見て、「へびよ、まむしの子らよ、どうして地獄の刑罰をのがれることができようか」と叱責されたという記録がある。このような聖書の記録に基づいてみると、我々は、天使と人間との間に淫行関係が結ばれ、それが堕落の原因になったという事実を知ることができるのである。

(四)善悪の果
我々は既に、善悪を知る木が、完成したエバを比喩したものであるという事実を明らかにした。では、善悪の果とは何をいうのであろうか。すなわち、それはエバの愛を意味するのである。果木が、果実によって繁殖するように、エバは、神を中心とするその愛をもって善の子女を繁殖しなければならなかったにもかかわらず、実際には、サタンを中心とする不倫な愛をもって悪の子女を生み殖やしたのである。エバはこのように、その愛をもって善の実を実らせることも、また悪の実を実らせることもできる成長期間を通過して、完成するように創造されていたのであった。それゆえに、その愛を善悪の果といい、また、その人間を善悪を知る木といったのである。
それでは、善悪の果を取って食べたということは、いったい何を意味するのであろうか。我々が何かを食べるということは、それをもって自分の血肉とするという意味である。エバは神を中心とする善なる愛をもって、善なる実を取って食べ、善なる血と肉を受け、善なる血統を繁殖しなければならなかったのである。それにもかかわらず、彼女はサタンを中心とする悪なる愛をもって悪なる実を食べ、悪なる血と肉を受けて悪なる血統を繁殖し、罪悪の社会をつくったのである。したがって、エバが善悪の果を取って食べたということは、彼女がサタン(天使)を中心とした愛によって、互いに血縁関係を結んだということを意味するのである。
創世記三章14節を見れば、神は堕落した天使を呪い給い、「おまえは腹で、這いあるき、一生、ちりを食べるであろう」と言われた。足で歩くことができず腹で這うということは、天使が創造本然の活動をすることができず、悲惨な状態になるということを意味するのであり、ちりを食うということは、天より追いだされることによって(イザヤ一四・12、黙一二・9)、神からの命の要素を受けることができず、罪悪の世界に陥って、悪の要素を受けながら生きていくということを意味するのである。

(五)罪の根
我々は聖書によって明らかにされたことにより、罪の根は人間始祖が果実を取って食べたことにあったのではなく、蛇に表示された天使と不倫なる血縁関係を結んだところにあったということを知るようになった。したがって、彼らは神の善の血統を繁殖することができず、サタンの悪の血統を繁殖するようになったのである。
さらにまた、我々は次のような事実から、人間の罪の根が淫乱にあったということを、より一層明確に知ることができるのである。罪の根が血縁関係によってつくられたので、この原罪は、子々孫々に遺伝されてきた。そして、罪を取り除こうとする宗教は、みな姦淫を最大の罪として定め、これを防ぐために、禁欲生活を強調してきたのであるが、これも罪の根が淫乱にあるということを意味するものである。また、イスラエル民族が神の選民となるため、贖罪の条件として割礼を行ったというのも、罪の根が淫乱によって悪の血を受けたところにあったために、堕落人間の体からその悪の血を抜きとることを条件として、聖別するためであった。数多くの英雄烈士、数多くの国家が滅亡した主要な原因が、この淫乱にあったということも、淫行という罪の根が、絶えず人間の心の中から、我知らず発動してきたためである。我々は宗教によって人倫道徳を立て、また諸般の教育を徹底的に実施して、犯罪を生みだす経済社会制度を改善することにより、他のすべての罪悪は、この社会から一掃することができるかもしれない。しかし、文明の発達と、安逸な生活環境に従い、増大しつつある淫乱による犯罪だけは、だれによっても、またいかなるものによっても、防ぐことができないというのが現在の実情である。したがって、人間社会から、この犯罪を根こそぎ取り除くことができない限り、決して理想世界を期待することはできないのである。ゆえに、再臨なさるメシヤは、この問題を根本的に解決し得るお方でなければならない。このように、これらの事実は、罪の根があくまでも淫行にあるということを如実に物語っているのである。

第二節 堕落の動機と経路
(一)天使の創造とその使命および人間との関係
(二)霊的堕落と肉的堕落

我々は既に、第一節において、蛇はまさしくエバを堕落させた天使を比喩したものであるということを明らかにした。このように、人間の堕落した動機は天使にあったから、その堕落の動機と経路を知るためには、まず、天使とは何かということを知らなければならない。

(一)天使の創造とその使命および人間との関係
すべての存在は神によって創造された。したがって当然天使もまた、神が創造し給うた被造物であることはいうまでもない。神は天使世界を他のどの被造物よりも先に創造された。創世記一章26節に書かれている天地創造の記録を見ると、神は「われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造り」と、自らを複数をもって語っておられるのであるが、これは今日まで多くの神学者たちが解釈してきたような三位神の立場から、そのように言われたのではなく、人間よりも先に創造されていた天使たちを考慮において、それらを含めた立場から言われたみ言であったことを知らなければならない。
神は被造世界の創造と、その経綸のために、先に天使を使いとして創造された(ヘブル一・14)。天使はアブラハムに神の重大な祝福のみ言を伝えたのであり(創一八・10)、キリストの受胎に関する消息を伝えたり(マタイ一・20、ルカ一・31)、獄中で鎖につながれていたペテロを解いて、城外に導いたのである(使徒一二・7〜10)。このほかにも、神のみ旨のために天使が活動している例は、聖書の中に、無数に探しだすことができる。それゆえに、黙示録二二章9節では、天使が自分自身を「僕」と言い、またヘブル書一章14節においては、天使を「仕える霊」と記録しているのである。そしてまた、天使は神に頌栄をささげる存在として創造されていたという証拠も、聖書の中に数多く見いだすことができる(黙五・11、黙七・11)。
つぎに、我々は天使と人間との創造原理的関係を探ってみることにしよう。神は、人間を子女として創造され、被造世界に対する主管権を賦与された(創一・28)。ゆえに、人間は天使さえも主管するようにつくられているのである。コリント・六章3節を見れば、人間は天使さえも審判できる権限があると書かれている。そして、霊的に通ずるあらゆる人たちは、数多くの天使たちが、楽園にいる聖徒たちを擁護しているのを見るのであるが、これもまた、天使の人間に対する主従関係を説明する一つの良い例であるといえよう。

(二)霊的堕落と肉的堕落
神は霊的部分と肉的部分をもって、人間を創造されたがゆえに、堕落においても霊肉両面の堕落が成立した。天使とエバとの血縁関係による堕落が霊的堕落であり、エバとアダムとの血縁関係による堕落が肉的堕落である。
では、天使と人間との間に、いかにして性的関係が成立するのであろうか。人間と霊的存在との間における感性は、いかなる点においても、実体的な存在の間における感性と、少しも異なるところがない。したがって、人間と天使との性的堕落は事実上可能なのである。
なお我々は、次のような事実を通しても、前に述べた内容をより確実に理解することができる。すなわち、人間社会において、地上人間たちが、霊人たちとしばしば結婚生活をする例があるということ、そして、天使がヤコブと角力をして、そのもものつがいを外したという例と共に(創三二・25)、また、天使がアブラハムの家庭に現れて肉を食べたという事実(創一八・8)、また、ロトの家に訪ねてきた二人の天使が、彼の準備した「種いれぬパン」を食べただけでなく、その町の民たちが、天使たちを見て色情を起こし、ロトの家を取り囲んで、「今夜おまえの所に来た人々はどこにいるか。それをここに出しなさい。われわれは彼らを知るであろう」(創一九・1〜5)と叫んだ事実などは、みなこれに属する例である。

(1) 霊 的 堕 落
神は天使世界を創造されてから(創一・26)、ルーシェル(明けの明星という意、イザヤ一四・12)に天使長の位を与えられた。それゆえに、あたかもアブラハムがイスラエルの祝福の基となったように、ルーシェルは天使世界の愛の基となり、神の愛を独占するかのような位置にいたのであった。しかし、神がその子女として人間を創造されたのちは、僕として創造されたルーシェルよりも、彼らをより一層愛されたのである。事実上、ルーシェルは、人間が創造される以前においても、以後においても、少しも変わりのない愛を神から受けていたのであるが、神が自分よりもアダムとエバをより一層愛されるのを見たとき、愛に対する一種の減少感を感ずるようになったのである。これは、ちょうど、朝から働いた労働者が、自分が働いただけに相当する労賃を全部受けとったにもかかわらず、遅く来て少し働いた労働者も自分と同じ労賃を受けとるのを見て、自分が受けた労賃に対する減少感を感じたという聖書の例え話(マタイ二〇・1〜15)と同じ立場であったということができる。このような立場で愛の減少感を感ずるようになったルーシェルは、自分が天使世界において占めていた愛の位置と同一の位置を、人間世界に対してもそのまま保ちたいというところから、エバを誘惑するようになったのである。これがすなわち、霊的堕落の動機であった。
被造世界は、そもそも、神の愛の主管を受けるように創造されている。したがって、愛は被造物の命の根本であり、幸福と理想の要素となるのである。それゆえに、この愛をより多く受ける存在であればあるほど、より一層美しく見えるのである。ゆえに神の僕として創造された天使が、神の子女として創造されたエバに対したとき、彼女が美しく見えたというのも当然のことであった。ましてやエバがルーシェルの誘惑に引かれてくる気配が見えたとき、ルーシェルはエバから一層強い愛の刺激を受けるようになったのである。こうなるともう矢も盾もたまらず、ルーシェルは死を覚悟してまで、より深くエバを誘惑するようになった。このようにして、愛に対する過分の欲望によって自己の位置を離れたルーシェルと、神のように目が開けることを望み、時ならぬ時に、時のものを願ったエバとが(創三・5、6)、互いに相対基準をつくり、授受作用をするようになったため、それによって非原理的な愛の力は、彼らをして不倫なる霊的性関係を結ぶに至らしめてしまったのである。
愛によって一体となれば、互いにその対象から先方の要素を受けるように創造された原理によって(創三・7)、エバはルーシェルと愛によって一体となったとき、ルーシェルの要素をそのまま受け継いだのであった。すなわち、第一に、エバはルーシェルから、創造目的に背いたということに対する良心の呵責からくる恐怖心を受けたのであり、第二には、自分が本来対すべき創造本然の夫婦としての相対者は天使ではなく、アダムだったという事実を感得することのできる新しい知恵を、ルーシェルから受けるようになったのである。当時、エバはまだ未完成期にいたのであった。したがって、そのときの彼女自体は、既に完成期にあった天使長に比べて、知恵が成熟していなかったために、彼女は天使長からその知恵を受けるようになったのである。

(2) 肉 的 堕 落
アダムとエバは、共に完成して、神を中心とする永遠の夫婦となるべきであった。ところが、エバが未完成期において、天使長と不倫なる血縁関係を結んだのち、再びアダムと夫婦の関係を結んだためにアダムもまた未完成期に堕落してしまったのである。このように、時ならぬ時にサタンを中心としてアダムとエバとの間に結ばれた夫婦関係は、そのまま肉的堕落となってしまったのである。
既に述べたように、エバは天使との霊的な堕落によって受けた良心の呵責からくる恐怖心と、自分の原理的な相対者が天使長ではなくアダムであるということを悟る、新しい知恵とを受けるようになったのである。ここにおいて、エバは、今からでも自分の原理的な相対者であるアダムと一体となることにより、再び神の前に立ち、堕落によって生じてきた恐怖心から逃れたいと願うその思いから、アダムを誘惑するようになった。これが、肉的堕落の動機となったのである。
このとき、不倫なる貞操関係によって天使長と一体となったエバは、アダムに対して、天使長の立場に立つようになった。したがって、神が愛するアダムは、エバの目には非常に美しく見えたのである。また、今やエバは、アダムを通してしか神の前に出ることのできない立場にあったから、エバにとってアダムは、再び神の前に戻る望みを託し得る唯一の希望の対象であった。
だからこそエバは自分を誘惑した天使長と同じ立場で、アダムを誘惑したのである。アダムがルーシェルと同じ立場に立っていたエバと相対基準を造成し、授受作用をすることによって生じた非原理的な愛の力は、アダムをして、創造本然の位置より離脱せしめ、ついに彼らは肉的に不倫なる性関係を結ぶに至ったのである。
アダムは、エバと一体となることによって、エバがルーシェルから受けたすべての要素を、そのまま受け継ぐようになったのである。そのようにして、この要素はその子孫に綿々と遺伝されるようになった。エバが堕落したとしても、もしアダムが、罪を犯したエバを相手にしないで完成したなら、完成した主体が、そのまま残っているがゆえに、その対象であるエバに対する復帰摂理は、ごく容易であったはずである。しかし、アダムまで堕落してしまったので、サタンの血統を継承した人類が、今日まで生み殖えてきたのである。

第三節 愛の力と原理の力および信仰のための戒め
(一)愛の力と原理の力から見た堕落
(二)信仰のための戒めを下さった目的
(三)信仰のための戒めが必要な期間


(一)愛の力と原理の力から見た堕落
人間は原理をもって創造され、原理軌道によって生存するように創造された。それゆえに、原理の力それ自体が、人間を原理軌道より脱線させ、堕落せしめることはあり得ないのである。これはあたかも、レールや機関車に故障がない限り、汽車が自ら軌道を脱線するということがあり得ないのと同様である。しかし、汽車も自らの走る力よりも強い、ある外力が、それと異なる方向から働いてきた場合には、脱線するほかはない。これと同じように、人間も、それ自身を成長させる原理の力よりも強い、ある力がそれと異なる目的をもってぶつかってくれば、堕落する以外にはないのである。この原理の力よりも強い力が、すなわち、愛の力なのである。それゆえに、未完成期における人間は、その非原理的な愛の力のために堕落する可能性があったのである。
それでは、神はなぜこのように原理の力よりも愛の力を強くして、未完成期における人間が、目的の違った愛の力にぶつかるとき、それによって堕落することもあり得るように創造されたのであろうか。
創造原理によれば、神の愛とは三対象の愛によって、三対象目的を完成した、四位基台の主体的な愛をいう。したがって、神の愛がなければ、人間創造の目的である四位基台が成就されないために、愛は人間の幸福と命の源泉なのである。神は原理によって創造された人間を、愛によって主管しなければならないので、その愛が愛らしく存在するためには、愛の力は、あくまでも、原理の力以上に強いものでなければならない。もし、愛の力が原理の力よりも弱いものであるとすれば、神は原理で創造された人間を、愛をもって主管できず、したがって、人間は神の愛よりも原理をより一層追求するようになるであろう。イエスが弟子たちを真理によって立たしめ、愛をもって救おうとされた理由は、正にここにあったのである。

(二)信仰のための戒めを下さった目的
神が、アダムとエバに「食うべからず」という信仰のための戒めを下さった目的は、どこにあったのだろうか。それは、愛の力が原理の力よりも強いため、まだ未完成期において神の直接的な愛の主管を受けることができずにいたアダムとエバが、もし天使長の相対的立場に立つようになれば、目的を異にする、その非原理的な愛の力によって堕落する可能性があったからである。天使長の非原理的な愛の力がいかに強くとも、アダムとエバが神の戒めに従い、天使を相手にせず、神とのみ相対基準を造成して授受作用をしていたならば、その非原理的な愛の力は作用することができず、彼らは決して堕落するはずがなかった。しかし、彼らが神の戒めを守らず、天使長と相対基準を造成して、それと授受作用をしたために、その不倫な愛の力が、彼らを脱線させてしまったのである。未完成期にいた人間に、このような戒めを与えられたのは、単純に、彼らが堕落しないようにするためだけではなかった。更にいま一つ、人間が、自分自身の責任分担として、そのみ言を信じ、自らの力で完成することによって神の創造性に似るようになり、併せて万物に対する主管性をも得るようにさせたいからでもあったのである(前編第一章第五節(二)(2))。
そして、この戒めを天使長に与え給わず、人間に与えられたというのは、神の子女としての立場から、天使までも主管しなければならない人間の創造原理的な資格と威信とを、立てさせようとされたからであった。

(三)信仰のための戒めが必要な期間
それでは、神が人間始祖に、「食うべからず」と言われた信仰のための戒めは、いつまでも必要であったのだろうか。愛を中心として見るとき、神の第二祝福完成は、アダムとエバが、神の愛を中心として夫婦となり、その子女が生み殖えることによって(創一・28)、神の愛による直接的な主管を受けることをいうのである。それゆえに、人間が完成すれば、「食う」のは原理的なものとして、当然許されるように創造されていたのであった。
愛の力は原理の力よりも強いので、アダムとエバが完成し、神を中心として夫婦となることにより、その絶対的な愛の力によって、神の直接的な主管を受けるようになれば、いかなるものも、またいかなる力もこの絶対的な夫婦の愛を断ちきることができないから、彼らは決して堕落するはずはなかった。まして、人間よりも低級な天使長の愛の力ぐらいでは、到底神を中心とした、彼ら夫婦の愛を断ちきることはできなかったはずである。それゆえに「食うべからず」と言われた神の戒めは、アダムとエバが未完成期にある場合に限ってのみ、必要であったのである。


第四節 人間堕落の結果

(一)サタンと堕落人間
(二)人間世界に対するサタンの活動
(三)目的性から見た善と悪
(四)善神の業と悪神の業
(五)罪
(六)堕落性本性

アダムとエバが、霊肉共に堕落することによって、人間と天使をはじめ、被造世界にいかなる結果を招来したのであろうか。我々はここで、この重要な問題を取り扱ってみることにしよう。

(一)サタンと堕落人間
堕落した天使長ルーシェルを、サタンと呼ぶということについては既に述べた。ルーシェルと人間始祖が血縁関係を結び、一体となったので、サタンを中心とする四位基台がつくられると同時に、人間はサタンの子女となってしまったのである。ヨハネ福音書八章44節を見ると、イエスは、ユダヤ人たちを「悪魔から出てきた者」と言い、またマタイ福音書一二章34節、同じくマタイ福音書二三章33節においては、彼らを「へびよ、まむしの子らよ」と言われたのである(マタイ三・7)。さらにロマ書八章23節では「御霊の最初の実を持っているわたしたち自身も、心の内でうめきながら、子たる身分を授けられること」を待つと記されているのであるが、これは、人間始祖の堕落によって、その子孫が、一人残らず、神の血統を受け継ぐことができず、サタンの血統を受け継いでしまったからである。アダムとエバが完成し、神を中心とする四位基台をつくったならば、そのとき、神の主権の世界は成就されるはずであった。しかし、彼らが未完成期において堕落し、サタンを中心とする四位基台をつくったので、この世界はサタン主権の世界となってしまったのである。それゆえ、ヨハネ福音書一二章31節には、サタンを「この世の君」と言い、またコリント・四章4節においては、サタンを「この世の神」と言ったのである。このようにして、サタンは、被造世界の主管主として創造された人間を逆に主管するようになったので、彼は被造世界全体をも主管するようになったのである。ゆえに、ロマ書八章19節には、「被造物は、実に、切なる思いで神の子たちの出現を待ち望んでいる」と記録されている。これは、万物が完成した人間の主管を受けることができず、サタンの主管を受けているため、そのサタンを追い払って、自分たちを主管してくれる創造本然の人間が現れることを願っているという意味なのである。

(二)人間世界に対するサタンの活動
サタンは、ヨブを神の前に訴えるように(ヨブ一・9)、絶えずあらゆる人間を神の前に訴え、地獄に引いていこうとしているのである。しかし、サタンもその対象を取り立てて、相対基準を造成し、授受作用をしない限り、サタン的な活動をすることはできない。サタンの対象は、霊界にいる悪霊人たちである。そして、この悪霊人たちの対象は、地上にいる悪人たちの霊人体であり、地上にいる悪人たちの霊人体の活動対象は彼らの肉身である。したがって、サタンの勢力は悪霊人たちを通して地上人間の肉身の活動として現れる。それゆえ、ルカ福音書二二章3節には「イスカリオテと呼ばれていたユダに、サタンがはいった」と記録されており、またマタイ福音書一六章23節を見れば、イエスはペテロを指してサタンと言われた。さらにまた、このような悪霊人体を「悪魔の使者」と記録しているところもある(マタイ二五・41)。
地上天国を復帰するということは(前編第三章第二節参照)、全人類がサタンとの相対基準を完全に断ちきり、神との相対基準を復帰して、授受作用をすることにより、サタンが全く活動することのできない、そのような世界をつくることをいうのである。終末に至って、サタンを底なき所に閉じ込めると言われたみ言は、とりもなおさず、サタンの相対者がいなくなることによって、サタンが活動できなくなるということを意味する。人間がサタンとの相対基準を断ち、更に一歩進んでコリント・六章3節のみ言のごとく、それらを審判するためには、サタンがサタンとなった罪状とその正体とを知り、神の前にサタンを訴えるようにならなければならないのである。ところが、神は天使と人間とを創造されるとき、彼らに自由を与えられたので、これを復帰するときにも、神は彼らに強制することはできない。それゆえに人間は、あくまでも自分の自由意志による責任分担としてみ言を探しだし、サタンを自然屈伏させてこそ、創造本然の人間に復帰することができるのである。神はこのような原則によって摂理されるので、復帰摂理歴史は、このように長い年月にわたって、延長に延長を重ねてきたのである。

(三)目的性から見た善と悪
善と悪に対する定義は、既に、創造原理の中の「創造本然の価値」において論じ尽くした。今、ここにおいて、我々は、その目的性から見た善悪の意味を調べてみることにしよう。アダムとエバが、彼らに賦与された愛をもって、神を中心として四位基台を造成したなら、彼らは善の世界をつくることができたはずである。しかし、彼らはこの目的に反する愛をもって、サタンを中心とする四位基台を造成したので、悪の世界をつくってしまったのである。それゆえに、善と悪とは、同一の意味をもつものが、相反した目的を指向して現れたその結果を指していう言葉なのである。したがって、我々が、しばしば悪であると考えてきた人間の性稟も、それが神のみ意を目的として現れるときには善になるという例を、いくらでも発見することができる。今、それに対する例を挙げてみることにしよう。我々が、往々にして罪であると考えるところの欲望なるものは、元来、神より賦与された創造本性である。なぜなら、創造目的は喜びにあるのであり、喜びは欲望を満たすときに感ずるものだからである。したがって、もし人間に欲望がないとすれば、そこには同時に喜びもあり得ないということになるのである。そうして欲望がないとすれば、神の愛を受けようとする欲望も、生きようとする欲望も、善を行おうとする欲望も、発展しようとする欲望もないということであるから、神の創造目的も、復帰摂理も、達成することができず、人間社会の維持とその発展もあり得ないのである。
このように、本来の欲望は創造本性であるがゆえに、この性稟が神のみ意を目的として結果を結ぶならば、善となるのである。しかし、これと反対に、サタンの目的を中心としてその結果を結べば悪となるのである。この悪の世界も、イエスを中心とし、その目的の方向だけを変えるならば、善なるものとして復帰され、地上天国が建設されるということは(前編第三章第二節(二)参照)、このような原理を見て明らかにされるのである。したがって、復帰摂理は、サタンの目的を指向しているこの堕落世界を、神の創造目的を成就する地上天国へと、その方向性を変えていく摂理であるとも、見ることができるのである。
復帰摂理の性格がそうであるから、この摂理の過程において取り扱われる善の基準は、絶対的なものではなく、あくまでも相対的なものである。なぜかといえば、ある特定の時代の上に立って考えてみると、その時代の主権者の理念の指向する目的に順応すれば善となり、その目的に反対すれば悪となるのであるが、いったん、その時代と主権者が変わり、その理念が変わるようになれば、同時にその目的も変わるので、したがって、善と悪の基準も変わるようになるのである。そればかりではなく、宗教や思想においても、その枠内にある人々にとっては、その教理とその思想が指向する目的に順応することが善であり、それに反対することは悪となる。しかし、いったんその教理や思想が変わるか、あるいは他の宗教に改宗するか、または他の思想に転向するようになれば、それに従って、目的も異なってくるので、善悪の基準もおのずから変わるようになるのである。人間社会において、常に闘争と革命が起こるその主な原因は、このように、人間の指向する目的が異なるに従って、善悪の基準が、常に異なってくるところにあるといえよう。このように復帰過程における善は、相対的なものとならざるを得ないのである。しかし、地上でサタンの主権を追い払い、時代と場所とを超越して永存し給う絶対者たる神御自身が主権者となり、その神からくるところの理念が立てられるときには、その理念は絶対的なものであるために、それが指向する目的もまた絶対的であり、善の基準も絶対的なものとして立てられるのである。これがすなわち、再臨主によってもたらされるべき天宙的な理念なのである。事実上、人類歴史は数多くの闘争と革命を重ねながら、本心が指向するこの絶対的な善を探し求めて流れてきたのである。したがって、堕落した人間社会における闘争と革命とは、この絶対的な目的を追求し、絶対的な善の世界を成就するまで継続せざるを得ないのである。

(四)善神の業と悪神の業
善神というのは、神と、神の側にいる善霊人たちと、天使たちを総称する言葉であり、悪神というのは、サタンと、サタンの側にいる悪霊人たちを総称する言葉である。善と悪とがそうであるように、善神の業と悪神の業も、同一のかたちをもって出発し、ただその目的のみを異にするものなのである。
善神の業は、時間がたつにつれてその個体の平和感と正義感を増進せしめ、その肉身の健康をも向上させる。しかし、悪神の業は、時間がたつにつれて不安と恐怖と利己心を増進せしめ、また健康をも害するようになる。それゆえに、このような霊的な業は、原理が分からない人にとっては、それを見分けることが非常に困難であるが、時間が経過するに従って、その結果を見て、その内容を知ることができるのである。しかし、堕落人間は、神もサタンも、共に対応することのできる中間位置にあるので、善神が活動する環境においても、悪神の業を兼ねて行うときがある。また悪神の業も、ある期間を経過すれば、善神の業を兼ねて行うときがときたまあるから、原理を知らない立場においては、これを見分けることは難しい。今日において多くの聖職者たちが、これに対する無知から、善神の働きまでも悪神のそれと見なし、神のみ旨に反する立場に立つようになるということは、実に寒心に堪えないことといわなければならない。霊的な現象が次第に多くなる今日において、善神と悪神との業の違いを十分に理解し、これを分立することができない限り、霊人たちを指導することはできないのである。

(五)罪
罪とは、サタンと相対基準を造成して授受作用をなすことができる条件を成立させることによって、天法に違反するようになることをいう。その罪を分類してみれば、第一に原罪というものがあるが、これは人間始祖が犯した霊的堕落と肉的堕落による血統的な罪をいい、この原罪は、すべての罪の根となるのである。
第二に、遺伝的罪がある。これは、父母の犯した罪が数代にまで及ぶという十戒のみ言のように、血統的な因縁をもって、その子孫が受け継いだ祖先の罪をいう。
第三には、連帯罪というものがある。これは、自身が犯した罪でもなく、また遺伝的な罪でもないが、連帯的に責任を負わなければならない罪をいう。例えば、祭司長と律法学者がイエスを十字架につけた罪により、ユダヤ人全体がその責任を負って神の罰を受けなければならなかったし、全人類もまた、共同的な責任を負って、イエスが再臨なさるそのときまで、苦難の道を歩まねばならなかったが、それはこの罪のゆえである。
第四に、自犯罪というものがあるが、これは、自身が直接犯した罪である。ここにおいて、我々が前に述べたところの原罪を、罪の根というならば、遺伝的罪は罪の幹、連帯罪は罪の枝、自犯罪は罪の葉に該当するのである。しかし、すべての罪は、その根に該当する原罪から生ずる。それゆえに、原罪を清算しない限りは、他の罪を根本的に清算することはできない。しかしながら、隠されているこの罪の根はいかなる人間も知ることができないもので、ただ人間の根として、また、真の父母として降臨されるイエスのみがこれを知り、清算することができるのである。

(六)堕落性本性
天使が神に反逆して、エバと血縁関係を結んだとき、偶発的に生じたすべての性稟を、エバはそのまま継承したのであり、こうして天使長の立場におかれるようになったエバと、再び血縁関係を結んだアダムも、またこの性稟を受け継ぐようになった。そして、この性稟が、堕落人間のすべての堕落性を誘発する根本的な性稟となってしまったのである。これを堕落性本性という。
このような堕落性本性が生ずるようになった根本的動機は、天使長がアダムに対する嫉妬心を抱いたところにあった。それでは、善の目的のために創造された天使長から、いかにしてそのような愛に対する嫉妬心が生ずるようになったのであろうか。元来、天使長にも、創造本性として、欲望と知能とが賦与されていたはずであった。このようにして、天使長は知能をもっていたので、人間に対する神の愛が、自分に注がれるそれよりも大きいということを比較し、識別することができたのであり、またその上に欲望をもっていたから、神からそれ以上に大きい愛を受けたいという思いがあったということは当然なことである。そして、こういう思いは、自動的に嫉妬心を生ぜしめたのである。したがって、このような嫉妬心は、創造本性から誘発されるところの、不可避的な副産物であり、それはちょうど、光によって生ずる、物体の影のようなものであるといえよう。しかし、人間が完成すれば、このような付随的な欲望によっては決して堕落することはできなくなるのである。なぜなら、このような欲望を満たすときに覚える一時的な満足感よりも、その欲望を満たすことによって生ずる自己破滅に対する苦痛の方が、もっと大きいということを実感するようになるので、このような行いをすることができないのである。
そして、創造目的を完成した世界は、あたかも一人の人間のように、互いに有機的な関係をもつ組織社会であるから、個体の破滅は、直ちに全体的な破滅を招来するようになる。したがって、全体は個体の破滅を放任することができない。このように、創造目的を完成した世界においての創造本性から生ずる付随的な欲望は、人間の発展をもたらす要素とはなっても、決して堕落の要因とはなり得ないのである。
堕落性本性を大別すれば、次の四つに分類することができる。その第一は、神と同じ立場に立てないということである。天使長が堕落するようになった動機は、神が愛するアダムを、神と同じ立場で愛することができず、彼をねたんでエバの愛を蹂躙したところにあった。君主の愛する臣下に対して、その同僚が、君主と同じ立場において愛することができず、ねたみ嫌う性稟は、とりもなおさず、このような堕落性本性から生ずるのである。
第二には、自己の位置を離れるということである。ルーシェルは、神の愛をより多く受けるために、天使世界においてもっていたと同じ愛の位置を、人間社会においても保とうとして、その不義なる欲望によって、自己の位置を離れ、堕落したのであった。不義な感情をもって、自己の分限と位置を離れるというような行動は、みなこの堕落性本性の発露である。
第三は、主管性を転倒するということである。人間の主管を受けるべき天使が、逆にエバを主管し、またアダムの主管を受けるべきエバが、逆にアダムを主管するようになったところから、堕落の結果が生じたのである。このように自己の位置を離れて、主管性を転倒するところから、人間社会の秩序が乱れるのであるが、これは、すべてこのような堕落性本性から生ずるのである。
第四は、犯罪行為を繁殖することである。もし、エバが堕落したのち、自分の罪をアダムに繁殖させなかったならば、アダムは堕落しなかったであろうし、エバだけの復帰ならば、これは容易であったはずである。しかし、エバはこれとは反対に、自分の罪をアダムにも繁殖させ、アダムをも堕落させてしまった。悪人たちがその仲間を繁殖させようとする思いも、このような堕落性本性から生ずる思いなのである。
第五節 自由と堕落
(一)自由の原理的意義
(二)自由と人間の堕落
(三)自由と堕落と復帰

(一)自由の原理的意義
自由に対する原理的な性格を論ずるとき、第一に、我々は、原理を離れた自由はない、という事実を知らなければならない。そして、自由とは、自由意志とこれに従う自由行動とを一括して表現した言葉なのである。前者と後者とは、性相と形状との関係にあり、これが一体となって初めて完全な自由が成立する。それゆえに、自由意志のない自由行動なるものはあり得ず、自由行動の伴わない自由意志というものも、完全なものとはなり得ないのである。自由行動は、自由意志によって現れるものであり、自由意志はあくまでも心の発露である。しかし、創造本然の人間においては、神のみ言、すなわち、原理を離れてはその心が働くことができないので、原理を離れた自由意志、あるいは、それに基づく自由行動はあり得ない。したがって、創造本然の人間には、原理を離れた自由なるものはあり得ないのである。
第二に、責任のない自由はあり得ない。原理によって創造された人間は、それ自身の自由意志をもって、その責任分担を完遂することによってのみ完成する(前編第一章第五節(二)(2))。したがって、創造目的を追求していく人間は、常に自由意志をもって自分の責任を全うしようとするので、責任のない自由はあり得ないのである。
第三に、実績のない自由はない。人間が、自由をもって、自身の責任分担を完遂しようとする目的は、創造目的を完成して、神を喜ばせ得るような実績を上げようとするところにある。したがって、自由は常に実績を追求するがゆえに、実績のない自由はあり得ないのである。

(二)自由と人間の堕落
前項で詳述したように、自由は原理を離れてはあり得ない。したがって、自由は自らの創造原理的な責任を負うようになるし、また、神を喜ばせ得るような実績を追求するために、自由意志による自由行動は、善の結果のみをもたらすようになる。それゆえに人間は決して自由によって堕落することはできないのである。コリント・ 三章17節に「主の霊のあるところには、自由がある」と言われた。我々は、このような自由を、本心の自由というのである。
アダムとエバは、神から善悪の果を取って食べてはならないという戒めを受けた以上、彼らは、神の干渉なくして、もっぱら本心の自由によって、その命令を守るべきであった。したがって、エバが原理を脱線しようとしたとき、原理的な責任と実績を追求するその本心の自由は、彼女に不安と恐怖心を生ぜしめ、原理を脱線しないように作用したのである。また、堕落したのちにおいても、この本心の自由は、神の前に帰るように作用したのであった。したがって、人間は、このような作用をする本心の自由によって、堕落することはあり得ない。人間の堕落は、どこまでも、その本心の自由が指向する力よりも強い非原理的な愛の力によって、その自由が拘束されたところに起因するのである。すなわち人間は、堕落によって自由を失うこととなったのである。しかし、堕落した人間にも、この自由を追求する本性だけは、そのまま残っているので、神はこの自由を復帰する摂理を行うことができるのである。歴史が流れるに従い、人間が己の命を犠牲にしてまでも、自由を求めようとする心情が高まるというのは、人間がサタンによって失った、この自由を再び奪い返していく証拠なのである。ゆえに、人間が自由を求める目的は、自由意志による自由行動をもって、原理的な責任と実績をはっきりと立て、創造目的を完成しようとするところにあるのである。

(三)自由と堕落と復帰
天使は、人間に仕えるために創造された。したがって、人間が天使に対するのは、どこまでも人間の自由に属する問題なのである。しかし、天使から誘惑された当時のエバは、いまだ知的、あるいは心情的に、未完成期にいた。したがって、エバが天使の誘惑により、知的に迷わされ、心情的に混沌となって誘惑されたとき、彼女は責任と実績を追求する本心の自由によって生ずる不安を覚えたのであるが、より大きい天使との愛の力によって、堕落線を越えてしまったのである。エバがいかに天使と自由に対したといっても、取って食うべからずと言われた神の戒めのみを信じて、天使の誘惑の言葉に相対しなかったとすれば、天使との非原理的な愛の力は発動し得ず、彼女は決して堕落するはずがなかった。それゆえに、自由が、エバをして、天使を相手とし、堕落線まで引っ張っていったことは事実であるが、堕落線を越えさせたものはどこまでも自由ではなくして、非原理的な愛の力であったのである。人間は、天使に対しても、自由をもって対するように創造されていたので、エバがルーシェルに対するようになり、それと相対基準を造成して、授受作用をするようになったとき、そこに生じた非原理的な愛の力によって、彼らは堕落したのである。それゆえ、これとは反対に、堕落人間も自由をもって神に対して相対的な立場に立つことができるのであるから、真理のみ言に従って、神と相対基準を造成し、授受作用をするようになれば、その原理的な愛の力によって、創造本性を復帰することができるのである。既に述べたように、人間が本性的に自由を叫ぶようになるのは、このようにして、創造本性を復帰しようとする、本心の自由の指向性があるためである。
人間は、堕落によって無知に陥り、神を知ることができないようになったので、その心情も分からなくなってしまった。それゆえに、人間の意志はこの無知によって、神が喜ばれる方向を取ることができなくなってしまったのである。しかし、堕落人間においては、復帰摂理の時代的恩恵により、神霊(内的な知)と真理(外的な知)とが明らかになるにつれて、創造目的を指向する本心の自由を求める心情が、復帰されてくるようになり、それによって、神に対する心情も漸次復帰され、そのみ旨に従って生きようとする意志も高まるのである。
また、彼らはこのように、自由を復帰しようとする意志が高潮するに従って、これを実現することのできる社会環境を要求せざるを得なくなるのである。しかし、その時代の環境が、自由を求めるその時代の人間たちの欲望を満足させることができないときは、必然的に社会革命が起こるようになるのである。十八世紀に起こったフランス革命は、その代表的な例であるが、このような革命は、結局、創造本然の自由が完全に復帰されるときまでは、継続せざるを得ないのである。


第六節 神が人間始祖の堕落行為を干渉し給わなかった理由
(一)創造原理の絶対性と完全無欠性のために
(二)神のみ創造主であらせられるために
(三)人間を万物の主管位に立たせるために


神は全知全能であられるので人間始祖の堕落行為を知られなかったはずがない。また彼らが堕落行為を行わないように、それを防ぐ能力がなかったわけでもない。それでは、神はなぜ、彼らの堕落行為を知っておられながら、それを干渉し防ぎ給わなかったのであろうか。これは、今日まで人類歴史を通じて、解くことのできなかった重大な問題の中の一つである。我々は、神が人間の堕落行為を干渉なさらなかった理由として、次の三つの条件を挙げることができる。

(一)創造原理の絶対性と完全無欠性のために
創造原理によれば、神は人間が神の創造性に似ることによって、あたかも神御自身が人間を主管されるように人間は万物世界を主管するように創造されたのである。そこで、人間が神の創造性に似るためには、人間自身がその責任分担を遂行しながら成長し、完成しなければならない。このような成長期間を、我々は間接主管圏、あるいは、原理結果主管圏というのである。それゆえに、人間がこの圏内にいるときには、彼ら自身の責任分担を完遂させるため、神は彼らを直接的に主管してはならないのである。そして、神は人間が完成したのちにおいて、初めて彼らを直接主管されるようになっているのである。もし、神がこのような成長期間に、彼らの行為を干渉し、彼らを直接主管されるとすれば、神は彼らが完成したのちに初めて直接主管するというその創造原理を、自ら無視する立場に立たれることになるのである。このように原理が無視されるようになれば、同時に、原理の絶対性と完全無欠性は喪失されてしまう。神は絶対者であり、完全無欠なる創造主であられるがゆえに、神が定められた創造原理も、また絶対的であり、完全無欠でなければならない。それゆえに、神は創造原理の絶対性と完全無欠性のために、未完成期にいた彼らの堕落行為に対して干渉されなかったのである。

(二)神のみ創造主であらせられるために
神は自ら創造された原理的な存在とその行動のみを干渉されるために、犯罪行為や地獄のような、御自分が創造されなかった非原理的な存在や行動には干渉し給わないのである。神がもしある存在や行動に対して干渉し給うならば、干渉を受けるその存在や行動は、既に、創造の価値が賦与され、原理的なものとして認定されたもののような結果をもたらすのである。
このような論理に立脚してみるとき、もし神が、人間始祖の堕落行為に対して干渉されるとすれば、その堕落行為にも創造の価値が賦与されることになり、原理的なものとして認定せざるを得なくなるのである。もしそうなれば、神は犯罪行為をも原理的なものとして認定されるという、もう一つの新しい原理を立てる結果をもたらすのである。このような結果をもたらすことは、どこまでもサタンが存在するためであり、そうなれば、サタンもまた、一つの新しい原理を創造したということになり、創造主の立場に立つことになる。したがって、独り神のみ創造主であらせられるためには、彼らの堕落行為に干渉することができなかったのである。

(三)人間を万物の主管位に立たせるために
神は人間を創造されてのち、万物を主管せよと言われた(創一・28)。人間が神のみ言のとおりに万物を主管しようとすれば、万物と同等な立場においてはそれをなすことはできない。ゆえに、人間はそれを主管し得るある資格をもたなければならないのである。
神が創造主であられるがゆえに、人間を主管し得る資格をもっておられるように、人間も万物を主管することのできる資格をもつためには、神の創造性をもたなければならないのである。したがって、神は人間に創造性を賦与し、万物を主管し得る資格を得るために成長期間を設け、この期間が満ちるときまで、人間がそれ自身の責任分担を遂行することによって完成するように創造されたのである。それゆえに、人間はこのような原理過程を通過し、完成することによってのみ、万物を主管し得る資格を得て、初めて万物を治めるようになるのである。
そうであるにもかかわらず、もし、未完成期にいる人間を神が直接主管し、干渉されるとすれば、これは人間の責任分担を無視する結果となり、神の創造性をもつこともできなくなるために、万物を主管する資格も失うということになるのである。したがって、このような人間をして万物を主管せしめることは、不可能であるばかりでなく、未完成な人間を完成した人間と同一に取り扱うという矛盾を招来することにもなるのである。そしてまた、この人間に、その創造性を与えることによって、万物を主管せしめるように設けられた創造原理を、自ら無視するという結果となってしまうのである。それゆえに、原理によって被造世界を創造され、その原則に従って摂理を行い給う神は、人間を万物の主管位に立たしめるために、いまだ間接主管圏内にいた未完成な人間の堕落行為を、干渉することができなかったのである。
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2011年02月10日

家庭盟誓 渋谷統一教会

一、天一国主人、私たちの家庭は真の愛を中心として、本郷の地を求め、本然の創造理想である
   地上天国と天上天国を創建することをお誓い致します。

二、天一国主人、私たちの家庭は真の愛を中心として、神様と真のご父母様に侍り、天宙の代表的
   家庭となり、中心的家庭となって、家庭では孝子、国家では忠臣、世界では聖人、天宙では
   聖子の家庭の道理を完成することをお誓い致します。

三、天一国主人、私たちの家庭は真の愛を中心として、四大心情圏と三大王権と皇族圏を完成する
   ことをお誓い致します。

四、天一国主人、私たちの家庭は真の愛を中心として、神様の創造理想である天宙大家族を形成し、
   自由と平和と統一と幸福の世界を完成することをお誓い致します。

五、天一国主人、私たちの家庭は真の愛を中心として、毎日、主体的天上世界と対象的地上世界の
   統一に向かい、前進的発展を促進化することをお誓い致します。

六、天一国主人、私たちの家庭は真の愛を中心として、神様と真のご父母様の代身家庭として、
   天運を動かす家庭となり、天の祝福を周辺に連結させる家庭を完成することをお誓い致し
   ます。  

七、天一国主人、私たちの家庭は真の愛を中心として、本然の血統と連結された為に生きる生活を
   通して、心情文化世界を完成することをお誓い致します。

八、天一国主人、私たちの家庭は真の愛を中心として、成約時代を迎え、絶対信仰、絶対愛、絶対
   服従によって、神人愛一体理想を成し、地上天国と天上天国の解放圏と釈放圏を完成すること
   を お誓い致します。
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第一章 創造原理 渋谷統一教会

第一章 創 造 原 理

第一節 神の二性性相と被造世界
第二節 万有原力と授受作用および四位基台
第三節 創造目的
第四節 創造本然の価値
第五節 被造世界の創造過程とその成長期間
第六節 人間を中心とする無形実体世界と有形実体世界
人間は長い歴史の期間にわたって、人生と宇宙に関する根本問題を解決するために苦悶してきた。けれども、今日に至るまで、この問題に対して納得のいく解答を我々に与えてくれた人はまだ一人もいない。それは本来、人間や宇宙がいかに創造されたかという究極の原理を知らなかったからである。さらに、我々にはもっと根本的な先決問題が残っている。それは、結果的な存在に関することではなく、原因的な存在に関する問題である。ゆえに、人生と宇宙に関する問題は、結局それを創造し給うた神が、いかなるお方かということを知らない限り解くことができないのである。創造原理はこのような根本的な問題を、広範囲にわたって扱っている。

第一節 神の二性性相と被造世界
(一) 神の二性性相
(二) 神と被造世界との関係


(一) 神の二性性相
無形にいます神の神性を、我々はいかにして知ることができるだろうか。それは、被造世界を観察することによって、知ることができる。そこで、パウロは、「神の見えない性質、すなわち、神の永遠の力と神性とは、天地創造このかた、被造物において知られていて、明らかに認められるからである。したがって、彼らには弁解の余地がない」(ロマ一・20)と記録している。あたかもすべての作品は、その作者の見えない性稟の実体的展開であるように、被造世界の森羅万象は、それを創造し給うた神の見えない神性の、その実体対象として展開されたものなのである。それゆえ、作品を見てその作者の性稟を知ることができるように、この被造万物を見ることによって神の神性を知ることができるのである。
今我々は、神の神性を知るために、被造世界に普遍的に潜んでいる共通の事実を探ってみることにしよう。存在しているものは、いかなるものであっても、それ自体の内においてばかりでなく、他の存在との間にも、陽性と陰性の二性性相の相対的関係を結ぶことによって、初めて存在するようになるのである。これについて実例を挙げてみれば、今日、すべての物質の究極的構成要素といわれている素粒子は、みな、陽性、陰性、または陽性と陰性の中和による中性を帯びている。これらが二性性相の相対的関係を結ぶことによって、原子を形成するのである。
さらに、原子も、陽性または陰性を帯びるようになるが、これらの二性性相が相対的関係を結ぶことによって、物質の分子を形成するのである。このように形成された物質は、また、互いに二性性相の相対的関係によって植物または動物に吸収されて、それらの栄養となるのである。
さらに、すべての植物は各々雄しべと雌しべとによって存続するし、また、すべての動物は各々雄と雌とによって繁殖、生存するのである。人間についての例を見ても、神は男性のアダムを創造されてのち、「人がひとりでいるのは良くない」(創二・18)と言われ、その対象として女性のエバを創造なさったあと、初めて「はなはだ良(善)かった」(創一・31)と言われたのである。さらに、あたかも、電離した陽イオンや陰イオンが、各々陽子と電子との結合によって形成されているように、雄しべや雌しべ、あるいは雄や雌もまた、各々それ自体の内部で、陽性と陰性の二性性相の相対的関係を結ぶことによって、初めて存在することができるのである。したがって、人間においても、男性には女性性相が、女性には男性性相が各々潜在しているのである。そればかりでなく、森羅万象の存在様相が、表裏、内外、前後、左右、高低、強弱、抑揚、長短、広狭、東西、南北などのように、すべて相対的であるのも、あらゆる被造物が二性性相の相対的関係によって、互いに存在できるように創造されているからである。
以上の記述によって、我々はすべての存在が、陽性と陰性との二性性相による相対的関係によって存在を保ち得ているという事実を明らかにした。さらに、我々はすべての存在を形成しているもっと根本的な、いま一つの二性性相の相対的関係を知らなければならない。存在するものはすべて、その外形と内性とを備えている。そして、その見えるところの外形は、見ることのできない内性が、そのごとくに現れたものである。したがって、内性は目に見ることはできないが、必ずある種のかたちをもっているから、それに似て、外形も目に見える何らかのかたちとして現れているのである。そこで、前者を性相といい、後者を形状と名づける。ところで、性相と形状とは、同一なる存在の相対的な両面のかたちを言い表しており、形状は第二の性相であるともいえるので、これらを総合して、二性性相と称するのである。
これに対する例として、人間について調べてみることにしよう。人間は体という外形と心という内性とからできている。そして、見える体は見えないその心に似ているのである。すなわち、心があるかたちをもっているので、その心に似ている体も、あるかたちをもつようになるのである。観相や手相など、外貌から、見えないその心や運命を判断することができるという根拠もここにある。それゆえ、心を性相といい、体を形状と称するのである。ここで、心と体とは、同一なる人間の相対的両面のかたちをいうのであって、体は第二の心であるということもできるので、これらを総合して二性性相であるという。これによって、あらゆる存在が性相と形状による二性性相の相対的関係によって存在しているという事実を、我々は知るようになった。
それでは、性相と形状とは、お互いにいかなる関係をもっているのであろうか。無形の内的な性相が原因となって、それが主体的な立場にあるので、その形状は有形の外的な結果となり、その対象の立場に立つようになる。したがってこの両者はお互いに、内的なものと外的なもの、原因的なものと結果的なもの、主体的なものと対象的なもの、縦的なものと横的なものとの相対的関係をもつようになるのである。これに対する例として、再び人間を取りあげてみることにしよう。心と体は、各々性相と形状に該当するもので、体は心に似ているというだけではなく、心の命ずるがままに動じ静ずる。それによって、人間はその目的を指向しつつ生を維持するのである。したがって、心と体とは、内外、原因と結果、主体と対象、縦と横などの相対的関係をもっているということができるのである。
このように、いかなる被造物にも、その次元こそ互いに異なるが、いずれも無形の性相、すなわち、人間における心のように、無形の内的な性相があって、それが原因または主体となり、人間における体のようなその形状的部分を動かし、それによってその個性体を、ある目的をもつ被造物として存在せしめるようになるのである。それゆえ、動物にも、人間の心のようなものがあり、これがある目的を指向する主体的な原因となっているので、その肉体は、その個体の目的のために生を営むようになるのである。植物にもやはりこのような性相的な部分があって、それが、人間における心のような作用をするので、その個体は有機的な機能を維持するようになるのである。そればかりでなく、人間が互いに結合するようになるのはそれらの中に各々結合しようとする心があるからであるのと同様、陽イオンと陰イオンとが結合してある物質を形成するのも、この二つのイオンの中に、各々その分子形成の目的を指向するある性相的な部分があるからである。陽子を中心として電子が回転して原子を形成するのも、これまた、これらのものの中に、各々その原子形成の目的を指向する性相的な部分があるからである。
また、今日の科学によると、原子を構成している素粒子は、すべてエネルギーから成り立っているという。それゆえ、そのエネルギーが素粒子を形成するためには、必ずそのエネルギー自体の中にも、素粒子形成の目的を指向する性相的な部分がなければならないということになる。更に一歩進んで、このように性相と形状とを備えているそのエネルギーを存在せしめることによって、あらゆる存在界の究極的な原因となるところのある存在を我々は追求せざるを得なくなるのである。この存在は、まさしく、あらゆる存在の第一原因として、これらすべてのものの主体となる性相と形状とを備えていなければならない。存在界のこのような第一原因を我々は神と呼び、この主体的な性相と形状のことを、神の本性相と本形状というのである。我々は、今、パウロが論証したように、あらゆる被造物に共通に見られる事実を追求することによって、神は本性相と本形状の二性性相の中和的主体として、すべての存在界の第一原因であられることが理解できるようになった。
既に述べたように、存在するものはいかなるものでも、陽性と陰性の二性性相の相対的関係によって存在するという事実が明らかにされた。それゆえに、森羅万象の第一原因としていまし給う神も、また、陽性と陰性の二性性相の相対的関係によって存在せざるを得ないということは、当然の結論だといわなければならない。創世記一章27節に「神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された」と記録されているみ言を見ても、神は陽性と陰性の二性性相の中和的主体としてもいまし給うということが、明らかに分かるのである。
それでは、性相と形状の二性性相と、陽性と陰性の二性性相とは、互いにいかなる関係をもっているのだろうか。本来、神の本性相と本形状は、各々本陽性と本陰性の相対的関係をもって現象化するので、神の本陽性と本陰性は、各々本性相と本形状の属性である。それゆえ、陽性と陰性とは、各々性相と形状との関係と同一なる関係をもっている。したがって、陽性と陰性とは、内外、原因と結果、主体と対象、または縦と横との相対的関係をもっている。神が男性であるアダムの肋骨を取って、その対象としての女性であるエバを創造されたと記録してある理由もここにあるのである(創二・22)。我々はここにおいて、神における陽性と陰性とを、各々男性と女性と称するのである。
神を中心として完成された被造世界は、ちょうど、心を中心として完成した人間の一個体のように、神の創造目的のままに、動じ静ずる、一つの完全な有機体である。したがって、この有機体も性相と形状とを備えなければならないわけで、その性相的な存在が神であり、その形状的存在が被造世界なのである。神が、被造世界の中心である人間を、神の形状である(創一・27)と言われた理由もここにある。したがって、被造世界が創造される前には、神は性相的な男性格主体としてのみおられたので、形状的な女性格対象として、被造世界を創造せざるを得なかったのである。コリント・一一章7節に、「男は、神のかたちであり栄光である」と記録されている聖句は、正にこのような原理を立証しているのである。このように、神は性相的な男性格主体であられるので、我々は神を父と呼んで、その格位を表示するのである。上述した内容を要約すれば、神は本性相と本形状の二性性相の中和的主体であると同時に、本性相的男性と本形状的女性との二性性相の中和的主体としておられ、被造世界に対しては、性相的な男性格主体としていまし給うという事実を知ることができる。

(二) 神と被造世界との関係
以上の論述によって、被造物はすべて、無形の主体としていまし給う神の二性性相に似た実体に分立された、神の実体対象であることが分かった。このような実体対象を、我々は個性真理体と称する。人間は神の形象的な実体対象であるので、形象的個性真理体といい、人間以外の被造物は、象徴的な実体対象であるために、それらを象徴的個性真理体という。
個性真理体は、このように神の二性性相に似た実体として分立されたものであるがゆえに、それらは、神の本性相的男性に似た陽性の実体と、その本形状的女性に似た陰性の実体とに分立される。さらに、このように分立された個性真理体は、すべて神の実体対象ともなるので、それらは各自、神の本性相と本形状に似て、それ自体の内に性相と形状の二性性相を備えるようになり、それにつれて、陽性と陰性の二性性相を、共に備えるようになる。
ここにおいて、二性性相を中心として見た神と被造世界との関係を要約すれば、被造世界は、無形の主体としていまし給う神の二性性相が、創造原理によって、象徴的または形象的な実体として分立された、個性真理体から構成されている神の実体対象である。すなわち、万物は神の二性性相が象徴的な実体として分立された実体対象であり、人間はそれが形象的な実体として分立された実体対象である。それゆえ、神と被造世界とは、性相と形状との関係と同じく、内外、原因と結果、主体と対象、縦と横など、二性性相の相対的な関係をもっているのである。
今、我々は創造原理に立脚して、東洋哲学の中心である易学の根本について調べてみることにしよう。易学では、宇宙の根本は太極(無極)であり、その太極から陰陽が、陰陽から木火土金水の五行が、五行から万物が生成されたと主張している。そして、陰陽を道と称し(一陰一陽之謂道)、その道は、すなわちみ言(道也者言也)であるといった。この内容を総合すれば、太極から陰陽、すなわちみ言が、このみ言から万物が生成されたという意味となる。したがって、太極は、すべての存在の第一原因として、陰陽の統一的核心であり、その中和的主体であることを意味するのである。
このようにして、ヨハネ福音書一章1節から3節に記録されているように、み言はすなわち神であり、このみ言から万物が創造されたというその内容と、これとを対照してみれば、陰陽の中和的な主体であるその太極は、二性性相の中和的主体である神を表示したものであるということを、知ることができるのである。
創造原理を見ても、み言が二性性相から成り立っているがゆえに、そのみ言から創造された被造物も二性性相からなるものでなければならない。したがって、陰陽が、すなわち「み言」であるという易学の主張は妥当である。
しかしながら、易学は単に陰陽を中心として存在界を観察することによって、それらが、すべて性相と形状とを備えているという事実を知らなかったので、太極が陰陽の中和的主体であることだけを明らかにするにとどまり、それが本来、本性相と本形状とによる二性性相の中和的主体であることを、明白にすることはできなかった。したがって、その太極が人格的な神であるという事実に関しては知ることができなかったのである。
ここにおいて、今我々は、易学による東洋哲学の根本も、結局、創造原理によってのみ解明せられるという事実が分かった。そうして、近来、漢医学が漸次その権威を増していくようになったのも、それが陰陽を中心とする創造原理的根拠に立脚しているからだということを知ることができるのである。


第二節 万有原力と授受作用および四位基台
(一) 万 有 原 力
(二) 授 受 作 用
(三) 正分合作用による三対象目的を完成した四位基台
(四) 神 の 遍 在 性
(五) 生 理 体 の 繁 殖
(六) すべての存在が二性性相になっている理由


(一) 万 有 原 力
神はあらゆる存在の創造主として、時間と空間を超越して、永遠に自存する絶対者である。したがって、神がこのような存在としておられるための根本的な力も、永遠に自存する絶対的なものであり、同時にこれはまた、被造物が存在するためのすべての力を発生せしめる力の根本でもある。このようなすべての力の根本にある力を、我々は万有原力と呼ぶ。

(二) 授 受 作 用
あらゆる存在をつくっている主体と対象とが、万有原力により、相対基準を造成して、良く授け良く受ければ、ここにおいて、その存在のためのすべての力、すなわち、生存と繁殖と作用などのための力を発生するのである。このような過程を通して、力を発生せしめる作用のことを授受作用という。ゆえに、万有原力と授受作用の力とは、各々原因的なものと結果的なもの、内的なものと外的なもの、主体的なものと対象的なものという、相対的な関係をもっている。したがって、万有原力は縦的な力であり、授受作用の力は横的な力であるともいえるのである。
我々は、ここにおいて、万有原力と授受作用を中心として、神と被造物に関することを、更に具体的に調べてみることにしよう。神はそれ自体の内に永存する二性性相をもっておられるので、これらが万有原力により相対基準を造成して、永遠の授受作用をするようになるのである。この授受作用の力により、その二性性相は永遠の相対基台を造成し、神の永遠なる存在基台をつくることによって、神は永存し、また、被造世界を創造なさるためのすべての力を発揮するようになるのである。
また、被造物においても、それ自体をつくっている二性性相が、万有原力により相対基準を造成して、授受作用をするようになる。また、この授受作用の力により、その二性は相対基台を造成し、その個性体の存在基台をつくって初めて、その個性体は神の対象として立つことができるし、また、自らが存在するためのすべての力をも発揮できるようになるのである。これに対する例を挙げれば、陽子と電子の授受作用によって原子が存在できるし、またその融合作用などを起こすことができるのである。また、陽陰二つのイオンの授受作用によって、分子が存在するようになり、化学作用を起こすこともできる。また、陽電気と陰電気との授受作用によって、電気が発生し、すべての電気作用が起こるようになるのである。
植物においては、導管と師管の授受作用によって、植物体の機能を維持し、有機的な生長をするようになる。そして、雄しべと雌しべの授受作用によって繁殖するのである。
動物も雄と雌の授受作用によって、その生体を維持し、また繁殖する。そして動植物間においても、酸素と炭酸ガスの交換、蜜蜂と花の授受作用などによってそれらは共存している。
天体を見ても、太陽と惑星との授受作用によって、太陽系が存在すると同時に、宇宙形成のための運行をなしている。また、地球と月も、授受作用によって一定の軌道を維持しながら、公転と自転の運行を継続しているのである。
人間の肉体は、動静脈、呼吸作用、交感神経と副交感神経などの授受作用によって、その生を維持しており、その個性体は体と心の授受作用によって存在しながら、その目的のために活動している。
さらに、家庭においては夫と妻が、社会においては人間と人間が、国家においては政府と国民が、もっと広く世界においては国家と国家が、お互いに授受作用をしながら共存している。
古今東西を問わず、いくら悪い人間であっても、正しいことのために生きようとするその良心の力だけは、はっきりとその内部で作用している。このような力は、だれも遮ることができないものであって、自分でも知らない間に強力な作用をなすものであるから、悪を行うときには、直ちに良心の呵責を受けるようになるのである。もしも、堕落人間にこのような良心の作用がないとすれば、神の復帰摂理は不可能である。では、このような良心作用の力はいかにして生じるのであろうか。あらゆる力が授受作用によってのみ生じることができるのだとすれば、良心もやはり独自的にその作用の力を起こすことはできない。すなわち、良心もまた、ある主体に対する対象として立ち、その主体と相対基準を造成して授受作用をするからこそ、その力が発揮されるのである。我々は、この良心の主体を神と呼ぶのである。
堕落というのは、人間と神との授受の関係が切れることによって一体となれず、サタンと授受の関係を結び、それと一体となったことを意味する。イエスは神と完全な授受の関係を結んで一体となられた、ただ一人のひとり子として来られたお方である。したがって、堕落した人間が、イエスと完全なる授受の関係を結んで一体となれば、創造本性を復帰して、神と授受作用をすることによって、神と一体となることができるのである。それゆえに、イエスは堕落人間の仲保となられると同時に、道であり、真理であり、また命でもあるのである。したがって、イエスは命をささげ、愛と犠牲によって、すべてのものを与えるために来られたお方であるから、だれでも彼に信仰をささげる者は滅びることのない永遠の命を得るのである(ヨハネ三・16)。キリスト教は、愛と犠牲により、イエスを中心として、人間同士がお互いに横的な授受の回路を回復させることによって、神との縦的な授受の回路を復帰させようとする愛の宗教である。それゆえに、イエスの教訓と行跡とは、みなこの目的のためのものであったのである。例を挙げれば、イエスは、「人をさばくな。自分がさばかれないためである。あなたがたがさばくそのさばきで、自分もさばかれ」るであろう(マタイ七・1、2)と言われた。また、「何事でも人々からしてほしいと望むことは、人々にもそのとおりにせよ」(マタイ七・12)と語られ、「だから人の前でわたしを受けいれる者を、わたしもまた、天にいますわたしの父の前で受けいれるであろう」(マタイ一〇・32)とも言われた。また、イエスは、「預言者の名のゆえに預言者を受けいれる者は、預言者の報いを受け、義人の名のゆえに義人を受けいれる者は、義人の報いを受けるであろう」(マタイ一〇・41)と言われ、「わたしの弟子であるという名のゆえに、この小さい者のひとりに冷たい水一杯でも飲ませてくれる者は、よく言っておくが、決してその報いからもれることはない」(マタ イ一〇・42)とも言われたのである。

(三) 正分合作用による三対象目的を完成した四位基台
(1) 正 分 合 作 用
万有原力によって、神自体内の二性性相が相対基準を造成して授受作用をするようになれば、その授受作用の力は繁殖作用を起こし、神を中心として二性性相の実体対象に分立される。このように分立された主体と対象が、再び万有原力により、相対基準を造成して授受作用をすれば、これらは再び、合性一体化して、神のまた一つの対象となる。このように、神を正として、それより分立して、再び合性一体化する作用を正分合作用と称する。

(2) 三 対 象 目 的
正分合作用により、正を中心として二性の実体対象に分立された主体と対象と、そしてその合性体が、各自主体の立場をとるときには、各々残りのものを対象として立たせて、三対象基準を造成する。そうして、それらがお互いに授受作用をするようになれば、ここで、その主体を中心として、各々三対象目的を完成するようになる。

(3) 四 位 基 台
このように、正分合作用により、正を中心として、二性の実体対象に立たされた主体と対象と、またその合性体が各々三対象目的を完成すれば、四位基台を造成するようになる。
四位基台は四数の根本であり、またそれは、三対象目的を完成した結果であるので、三数の根本でもある。四位基台は正分合作用によって、神、夫婦、子女の三段階をもって完成されるのであるから、三段階原則の根本となるのである。四位基台は、その各位を中心として、各々三対象となるので、これらを総合すれば十二対象となる。ゆえに、十二数の根本ともなるのである。また、四位基台は、創造目的を完成した善の根本的な基台でもあるので、神が運行できるすべての存在と、またそれらが存在するための、すべての力の根本的な基台ともなる。したがって、四位基台は、神の永遠なる創造目的となるのである。

(4) 四位基台の存在様相
正分合作用により三対象目的をつくって四位基台を完成した存在は、いかなるものでも、円形、または球形運動をなして、立体として存在する。今、我々はその理由を調べてみることにしよう。正分合作用により神の二性性相が、各々その実体対象に分立された主体と対象において、その対象が主体に対応して相対基準を造成すれば、その対象は主体を中心としてお互いに授ける力(遠心力)と、受ける力(求心力)とを交換しあって授受作用をするようになる。このように、主体と対象とが授受作用をするようになれば、その対象は主体を中心として互いに回転して、円形運動をするようになるから合性一体化する。また、これと同一なる原理によって、その主体は神の対象となり、神を中心として回転して神と合性一体化し、また、その対象が、このような主体と合性一体化 するようになるとき、初めてその合性体は、神の二性性相に似た実体対象となる。このように、その対象は、その主体と合性一体化することによって、初めて神の対象となることができるのである。
そうして、この実体対象における主体と対象も、これまた、各々二性性相からできているので、それらも同一の授受作用の原理によって、各自円形運動をしているのである。この実体対象は、このように、各自絶え間のない運動をしている主体と対象の授受作用によって、円形運動をするのであるから、その円形運動は、この運動を起こしているその主体と対象自体の特殊な運動様相により、場合によっては、同一の平面上の軌道でのみ起こることもあるが、一般的には、その主体を中心として、絶え間なくその円形運動の軌道の角度を異にしながら回転するので、この運動はやがて球形運動を起こすようになるのである。したがって、四位基台を完成した存在は、みな円形、または球形運動をするようになるので、その存在様相は立体とならざるを得ない。
これに対する例として、太陽系を挙げてみることにしよう。太陽を主体とするすべての惑星は、太陽の対象となり、それと相対基準を造成して、太陽を中心として、それと対応して、遠心力と求心力による授受作用をするがゆえに、それらはみな、公転の円形運動をするようになる。このような円形運動をする太陽と惑星などは、合性一体化して太陽系をつくるのである。しかるに、二性性相の複合体である地球が自転するだけでなく、太陽や、太陽を中心とした他の惑星なども、また二性性相の複合体であるので、絶え間なく自転している。したがって、このように自転している太陽と惑星などの授受作用による太陽系の円形運動は、常に同一の平面上の軌道においてのみ起こるのではなく、太陽を中心として、絶えずその軌道の角度を変えながら回転するので、太陽系は球形運動をするようになり、立体として存在するのである。このように、すべての天体は円形、または球形運動によって立体として存在する。このような無数の天体が互いに授受作用をすることによって、合性一体化されてつくられる宇宙も、やはり同じ原理により球形運動をすることによって、立体として存在するのである。
原子を形成している電子が、陽子と相対基準を造成して、陽子を中心として授受作用をするようになれば、それらは円形運動を起こすことにより合性一体化し、原子を形成するようになる。このように、陽子と電子も各々二性性相からなっていて、各自絶え間なく運動をしているので、このような陽子と電子の授受作用による円形運動も、やはり同一の平面上の軌道においてのみ起こるのではなく、陽子を中心として絶え間なくその角度を変えながら回転するので、この運動はやがて、球形運動に変わる。原子もまたこのように球形運動をすることによって立体として存在するようになる。電気によって、陽陰二極に現れる磁力線も、同じ原理により、球形運動をするのである。
また、このような例を人間において考えてみることにしよう。体は心の対象として、心と相対基準をつくって授受作用をするようになれば、体は心を中心として円形運動をすることによって合性一体化する。そうして、心が神の対象となり、神を中心として回転して、神と合性一体化し、体がこのような心と合性一体化するようになれば、その個体は初めて、神の二性性相に似た実体対象となり、創造目的を完成した人間となるのである。しかるに、体と心も各々二性性相からできていて、それ自体も各自絶え間のない運動をしているので、このような体と心の授受作用によって起こる円形運動は、神を中心として、絶えずその角度を変えながら回転するようになり、球形運動に変わる。それゆえに、創造目的を完成した人間は、神を中心として、常に球形運動の生活をする立体的な存在であるので、結局、無形世界までも主管するようになるのである(本章第六節参照)。
このように、主体と対象が授受作用をする平面的な回路による円形運動が、再び立体的な回路によって球形運動に変わることによって、創造の造化の妙味が展開されるのである。すなわち、その回路の距離、様相、状態、方向、角度、また、それらが各々授受する力の速度などの差異によって、千態万象の造化の美が展開されるようになるのである。
すべての存在は、性相と形状を備えているので、それらの球形運動にも、性相的なものと形状的なものとの二つがある。したがって、その運動の中心にも、性相的な中心と形状的な中心とがある。そうして、前者と後者は、性相と形状の関係と、同じ関係をもっている。それでは、この球形運動の究極的な中心はいったい何であろうか。神の二性性相の象徴的実体対象として創造された被造物の中心は、人間であり、神の形象的実体対象として創造された人間の中心は神なので、結局、被造世界の球形運動の究極的な中心は神であられる。我々は、これに関することを、もっと具体的に調べてみることにしよう。
神のすべての実体対象に備えられている主体と対象において、その対象の中心がその主体にあるので、主体と対象の合性体の中心も、やはりその主体にある。しかるに、その主体の究極的な中心は神であるので、その合性体の究極的な中心もまた神である。それゆえに、神の三対象が相対基準を造成して、それらの三つの中心が神を中心として一つになり、授受作用をすることによって、三対象目的を完成するとき、初めて、四位基台が完成できるのである。したがって、四位基台の究極的な中心は神である。このように、四位基台を完成した各個の被造物を個性真理体という。しかるに、上述したように、この個性真理体は、形象的個性真理体(人間)と、象徴的個性真理体(人間以外の被造物)とに大別される。被造世界は無数の個性真理体によって構成されているが、その低級なものから高級なものに至るまで、段階的に秩序整然として連結されている。その中で人間は、最高級の個性真理体として存在している。そうして個性真理体はすべて球形運動をしており、低級な個性真理体は、より高級な個性真理体の対象となるので、この対象の球形運動の中心は、いま一つ高級位にあってその主体となっている個性真理体なのである。このように、数多くの象徴的個性真理体の中心は、低級なものから、より高級なものへと、だんだん上位に連結され、その最終的な中心は、形象的個性真理体である人間となるのである。
このことについてもう少し詳しく考えてみることにしよう。今日の科学は、物質の最低単位を素粒子と見なしているが、素粒子はエネルギーからなっている。ここにおいて、物質世界を構成している各段階の個性真理体の存在目的を、次元的に観察してみると、エネルギーは素粒子の形成のために、素粒子は原子の構成のために、原子は分子の構成のために、分子は物質の形成のために、すべての物質は宇宙森羅万象の個体を構成するために、各々存在していることを知ることができる。それゆえに、エネルギーの運動の目的は素粒子に、素粒子の目的は原子に、原子の目的は分子に、分子の目的は物質に、すべての物質の目的は宇宙形成にあるのである。それでは、宇宙は何のためにあるのであり、その中心は何であるのだろうか。それは、まさしく人間である。ゆえに、神は人間を創造されたのち、被造世界を主管せよ(創一・28)と言われた。もしも、被造世界に人間が存在しないならば、その被造世界は、まるで、見物者のいない博物館のようなものとなってしまう。つまり、博物館のすべての陳列品は、それらを鑑賞し、愛し、喜んでくれる人間がいて初めて、歴史的な遺物として存在し得るところの因縁的な関係が、それらの間で結ばれ、各々その存在の価値を表すことができるのである。もしも、そこに、その中心となる人間が存在しないとすれば、それらはいったいいかなる存在意義をもつであろうか。人間を中心とする被造世界の場合も、これと少しも変わるところはない。すなわち、人間が存在して、被造物を形成しているすべての物質の根本とその性格を明らかにし、分類することによって初めて、それらはお互いに、合目的的な関係を結ぶことができるのである。さらにまた、人間が存在することによって初めて、動植物や水陸万象や宇宙を形成しているすべての星座などの正体が区別でき、それらが人間を中心として、合目的的な関係をもつことができるのである。それから物質は人間の肉体に吸収されて、その生理的な機能を維持させる要素となり、森羅万象は人間の安楽な生活環境をつくるための材料となるのである。これらはみな、人間の被造世界に対する形状的な中心としての関係であるが、これ以外にも、また、性相的な中心としての関係がある。前者を肉的な関係であるというならば、後者は精神的、または霊的な関係である。物質から形成された人間の生理的機能が、心の知情意に完全に共鳴するのは、物質もやはり、知情意に共鳴できる要素をもっているという事実を立証するものにほかならない。このような要素が、物質の性相を形成しているために、森羅万象は、各々その程度の差こそあれ、すべてが知情意の感応体となっている。我々が自然界の美に陶酔して、それらと渾然一体の神秘境を体験できるのは、人間が被造物のこのような性相の中心ともなるからである。人間は、このように、被造世界の中心として創造されたために、神と人間が合性一体化した位置が、まさしく天宙の中心となる位置なのである。
我々はまた、他の面において、人間が天宙の中心となるということについて論じてみることにしよう。詳細なことは第六節で述べるけれども、無形と有形の二つの世界を総称して天宙というが、人間はこの天宙を総合した実体相である。しかるに、既に述べたように、天宙を形成しているすべての被造物は、主体と対象とに分けられることが分かるのである。
ここにおいて、我々は、人間始祖として創造されたアダムがもし完成したならば、彼は被造物のすべての存在が備えている主体的なものを総合した実体相となり、エバが完成したならば、彼女は被造物すべての存在が備えている対象的なるものを総合した実体相となるという結論を、直ちに得ることができる。神は被造世界を主管するように人間を創造されたので、アダムとエバが共に成長して、アダムは被造物のすべての主体の主管主として完成し、またエバはすべての対象の主管主として完成され、彼らが夫婦となって一体となったならば、それがまさしく、主体と対象とに構成されている被造世界の全体を主管する中心体となるべきであったのである。
また、人間は天宙の和動の中心として創造されたので、すべての被造物の二性性相の実体的な中心体であるところのアダムとエバが、完成されて夫婦になってから、彼らがお互いに和動して一体となったときに、初めて二性性相として創造された全天宙と和動することができるのである。このように、アダムとエバが完成された夫婦として一体となったその位置が、正に愛の主体であられる神と、美の対象である人間とが一体化して、創造目的を完成した善の中心となる位置なのである。ここにおいて、初めて父母なる神は、子女として完成された人間に臨在されて、永遠に安息されるようになるのである。このときこの中心は、神の永遠なる愛の対象であるために、これによって、神は永遠に刺激的な喜びを感ずるようになる。また、ここにおいて初めて、神のみ言が実体として完成するので、これが正に真理の中心となり、すべての人間をして創造目的を指向するように導いてくれる本心の中心ともなるのである。それゆえに、被造世界は、このように人間が完成されて、神を中心として夫婦となることによってつくられる四位基台を中心に、合目的的な球形運動をするようになる。しかるに、被造世界は人間の堕落によってこの中心を失ったので、万物も実に切なる思いで、神の子たち、すなわち創造本性を復帰した人間たちが出現して、その中心となってくれる日を待ち望んでいるのである(ロマ八・19〜22)。

(四) 神 の 遍 在 性
上述のように、正分合作用によって三対象目的を完成した四位基台は、神を中心として球形運動を起こし、神と一体となるので、それは、神が運行できるすべての存在の、また、その存在のためのすべての力の根本的な基台となるということを我々は知った。ところで、創造目的を完成した世界においては、神の本性相と本形状の実体となっているすべての個性体は、みな、このように球形運動を起こし、神が運行できる根本的な基台を造成するようになっている。このようにして、神は一切の被造物の中に遍在されるようになるのである。

(五) 生 理 体 の 繁 殖
生理体が存続するためには、繁殖しなければならないし、その繁殖は授受作用による正分合作用によってなされる。これに対する例を挙げれば、植物は花の種子から花の雄しべと雌しべができ、その雄しべと雌しべの授受作用によって、再び多くの種子を結んで繁殖する。動物においてはその雄と雌が成長して、お互いに授受作用をして子を産むことによって繁殖する。また、動植物のすべての細胞分裂も授受作用によって起こるようになる。
ある目的を立てて、心が望むとおりに体が実践して、体と心とが授受作用をするようになれば、同志ができ、同志たちがお互いに良く授け、良く受ければ、もっと多くの同志を繁殖する。このような面から見れば、被造世界は、無形の神の本性相と本形状が、その創造目的を中心として、授受作用をすることによって、それが実体的に展開されて繁殖したものであると見ることができる。

(六) すべての存在が二性性相になっている理由
いかなるものでも、存在するためには、必ずある力を必要とするようになるが、その力は授受作用によってのみ起こる。けれども、いかなるものも単独で授受することはできないので、それが存在するための力を起こすには、必ず授受作用ができる主体と対象との二性性相として存在しなければならない。
また直線上の運動においてはいつかは終わりがこなければならないので、このような直線運動をしている存在は永遠性をもつことができない。それゆえに、いかなるものでも、永遠性をもつためには回転しなければならないし、回転するためには主体と対象が授受作用をしなければならない。それゆえに、神も永遠性をもつために、二性性相としていまし給うのであるし、神の永遠なる対象である被造物も永遠性をもつためには、神に似た二性性相として存在しなければならない。そして、時間と周期的な輪廻とによって、永遠性を維持しているのである。

第三節 創造目的
(一) 被造世界を創造された目的
(二) 神の喜びのための善の対象


(一) 被造世界を創造された目的
被造物の創造が終わるごとに、神はそれを見て良しとされた、と記録されている創世記のみ言を見れば(創一・4〜31)、神は自ら創造された被造物が、善の対象となることを願われたことが分かる。このように被造物が善の対象になることを願われたのは、神がそれを見て喜ばれるためである。それでは、被造物がいかにすれば、神に一番喜ばれるのであろうか。神は万物世界を創造されたのち、最後に御自分の性相と形状のとおりに、喜怒哀楽の感性をもつ人間を創造され、それを見て楽しもうとされた。そこで、神はアダムとエバを創造なさったのち、生育せよ、繁殖せよ、万物世界を主管せよ(創一・28)と言われたのである。この三大祝福のみ言に従って、人間が神の国、すなわち天国をつくって喜ぶとき、神もそれを御覧になって、一層喜ばれるということはいうまでもない。
それでは、神の三大祝福は、いかにして完成されるのだろうか。それは、創造の根本基台である四位基台が成就された基盤の上でのみ成就されるのである。それゆえに、神が被造世界を創造なさった目的は、人間をはじめ、すべての被造物が、神を中心として四位基台を完成し、三大祝福のみ言を成就して、天国をつくることにより、善の目的が完成されたのを見て、喜び、楽しまれるところにあったのである。
それゆえに、人間を中心とする被造世界が存在する目的は、神を喜ばせることであった。また、すべての存在は二重目的をもつ連体である。既に述べたように、すべての存在の中心には、性相的なものと、形状的なものとの二つがあるので、その中心が指向する目的にも、性相的なものと形状的なものとの二つがあって、それらの関係は性相と形状との関係と同じである。そして、性相的な目的は全体のためにあり、形状的な目的はそれ自体のためにあるもので、前者と後者は、原因的なものと結果的なもの、内的なものと外的なもの、主体的なものと対象的なものという関係をもっている。それゆえに、全体的な目的を離れて、個体的な目的があるはずはなく、個体的な目的を保障しない全体的な目的もあるはずがない。したがって、森羅万象の被造物は、このような二重目的によって連帯しあっている一つの広大な有機体なのである。

(二) 神の喜びのための善の対象
神の創造目的に関する問題を詳細に知るためには、我々がどんな状態にいるときに、喜びが生ずるかという問題を先に知らなければならない。喜びは独自的に生ずるものではない。無形のものであろうと、実体であろうと、自己の性相と形状のとおりに展開された対象があって、それからくる刺激によって自体の性相と形状とを相対的に感ずるとき、ここに初めて喜びが生ずるのである。一つの例を挙げれば、作家の喜びは、彼がもっている構想自体が対象となるか、あるいはその構想が、絵画とか彫刻などの作品として実体化して対象となったとき、その対象からくる刺激によって、自己の性相と形状とを相対的に感じて初めて生ずるようになる。ここで、構想自体が対象として立つときには、それからくる刺激は実体的なものではないために、それによる喜びも実体的なものとなることはできない。人間のこのような性稟は、みな神に似たものである。ゆえに、神もその実体対象からくる刺激によって、それ(神)自体の本性相と本形状を相対的に感ずるとき、初めて喜びに満たされるということを知ることができる。
四位基台の基盤の上で、三大祝福による天国が実現すれば、これがすなわち、神が喜びを感ずる世界であるということを、既に我々は説明してきた。そこで、これがいかにして神の喜びのための善の対象となるかを調べてみることにしよう。
神の第一祝福は個性を完成することにある。人間が個性を完成しようとすれば、神の二性性相の対象として分立された心と体とが、授受作用によって、合性一体化して、それ自体において、神を中心として個体的な四位基台をつくらなければならない。神を中心として心と体とが創造本然の四位基台を完成した人間は、神の宮となって(コリント・三・16)、神と一体となるので(ヨハネ一四・20)、神性をもつようになり、神の心情を体恤することによって神のみ旨を知り、そのみ旨に従って生活をするようになる。このように個性を完成した人間は、神を中心としたその心の実体対象となり、したがって、神の実体対象となる。ここで、その心と神は、このような実体対象からくる刺激によって、それ自体の性相と形状とを相対的に感ずることができるので、喜びに満ちることができるのである。そうであるから、個性を完成した人間は、神の喜怒哀楽を直ちにそれ自体のものとして感ずるようになり、神が悲しむ犯罪行為をすることができなくなるので、絶対に堕落することがない。
つぎに、神の第二祝福を成就するためには、神の二性性相が各々個性を完成した実体対象として分立されたアダムとエバが夫婦となり、合性一体化して子女を生み殖やし、神を中心として家庭的な四位基台をつくらなければならないのである。このように、神を中心として四位基台をつくった家庭や社会は、個性を完成した人間一人の容貌に似るようになるので、これは、神を中心とした人間の実体対象であり、したがって、また神の実体対象ともなるのである。それゆえに、人間や神は、このような家庭や社会から、それ自体の性相と形状とを相対的に感ずるようになり、喜びに満ちることができる。したがって、人間が神の第二祝福を完成すれば、それもまた神の喜びのための善の対象となるのである。
そのつぎに、人間が神の第三祝福を完成すれば、それがどうして神の喜びのための善の対象となるかを調べてみることにしよう。この問題を解明するためには、まず性相と形状とから見た人間と万物世界との関係を知らなければならない。
神は人間を創造する前に、未来において創造される人間の性相と形状とを形象的に展開して、万物世界を創造された。それゆえに、人間は万物世界を総合した実体相となるのである。人間を小宇宙という理由は、すなわちここにある。
神は下等動物から、次第に機能の複雑な高等動物を創造されて、最後に、最高級の機能をもった存在として人間を創造された。ゆえに、人間にはすべての動物の構造と要素と素性とが、ことごとく備えられているのである。人間がいかなる動物の声でも出すことができるのは、いかなる動物の発声器の性能をも備えているということを立証するものである。また、人間はいかなる被造物の形や線の美もみな備えているので、画家は人間の裸体をモデルとして画法を研磨するのである。
人間と植物とを比べてみても、その構造と機能には差異があるが、しかしすべてが細胞からできている点においては同一である。それから、人間には植物の構造と要素とその素性とが、ことごとく備えられている。すなわち、植物の葉はその容貌や機能から見て、人間の肺に該当する。葉が大気中から炭酸ガスを吸収するように、肺も酸素を吸収する。植物の幹と枝は人間の心臓に該当するもので、栄養素を全体に供給する。そして植物の根は人間の胃腸に該当するもので、栄養素を摂取する。さらにまた、植物の導管と師管の形態と機能とは、人間の動脈と静脈に該当するのである。
また、人間は水と土と空気で創造されたので、鉱物質の要素をももっている。地球も人体構造の表示体になっている。地球には植物に覆われた地殻があり、地層の中には地下泉があって、その下に岩層に覆われた熔岩層があるが、これは、ちょうど、産毛で覆われた皮膚があって、筋肉の中には血管があり、その下には骨格と、骨格に覆われた骨髄がある人間の構造とよく似ている。
神の第三祝福は、万物世界に対する人間の主管性の完成を意味する。人間が祝福を成就するためには、神の形象的実体対象である人間と、その象徴的実体対象である万物世界とが、愛と美を授け受けして合性一体化することにより、神を中心とする主管的な四位基台が完成されなければならない(本章第五節(二)ボート(船)参照)。
既に論じたように、万物世界はどこまでも、人間の性相と形状とを実体として展開したその対象である。それゆえに、神を中心とする人間は、その実体対象である万物世界からくる刺激によって、自体の性相と形状とを相対的に感ずることができるために、喜ぶことができるのである。そして、神はこのように、人間と万物世界とが合性一体化することによって、神の第三対象である被造世界によって、神自体の本性相と本形状に対する刺激的な感性を相対的に感じて、喜びに浸ることができる。人間がこのような神の第三祝福を完成すれば、それも神の喜びのための、また一つの善の対象となるのである。このように神の創造目的が完成されたならば、罪の影さえも見えない理想世界が地上に実現されたはずであって、このような世界を称して、我々は地上天国という。のちに詳細に説明するが、元来、人間は地上天国で生活して、肉体を脱ぐと同時に、霊界で自動的に天上天国の生活をするように創造されているのである。
既に説明したすべての事実を総合してみると、天国は神の本性相と本形状のとおりに、個性を完成した人間一人の容貌に似た世界であるということを、我々は知ることができる。人間において、その心の命令が中枢神経を通じて、その四肢五体に伝達されることにより、その人体が一つの目的を指向して動じ静ずるように、天国においては、神の命令が人類の真の父母を通して、すべての子女たちに伝達されることにより、みな一つの目的に向かって動じ静ずるようになるのである。

第四節 創 造 本 然 の 価 値
(一) 創造本然の価値の決定とその価値の基準
(二) 創造本然の知情意と創造本然の真美善
(三) 愛と美、善と悪、義と不義


(一) 創造本然の価値の決定とその価値の基準
創造本然の価値はいかにして決定されるのだろうか。ある対象がもっている価値は、その対象が存在する目的と、それに対する人間主体の欲求との相対的関係によって決定されるというのが、我々の今まで考えてきた一般的な価値観であった。しかし、ある個性体の創造本然の価値は、それ自体の内に絶対的なものとして内在するものでなく、その個性体が、神の創造理想を中心として、ある対象として存在する目的と、それに対する人間主体の創造本然の価値追求欲が相対的関係を結ぶことによって決定される。したがって、ある対象が創造本然の価値をもつためには、それが人間主体との授受作用により合性一体化して、神の第三対象になり、創造本然の四位基台をつくらなければならない。では、創造本然の価値の基準はどこにあるのだろうか。創造本然の価値は、ある対象と人間主体とが、神を中心として、創造本然の四位基台を完成するときに決定されるが、この四位基台の中心が絶対者であられる神であるから、この価値の基準も絶対者なる神である。それゆえに、絶対者であられる神を基準として、これに対して相対的に決定されるある対象の創造本然の価値もまた絶対的でないはずがない。
例を挙げれば、花の美はいかにして決定されるのだろうか。それは、神がその花を創造された目的と、その花の美を求める、人間の美に対する創造本然の追求欲が合致するとき、言い換えれば、神の創造理想に立脚した人間の美に対する追求欲が、その花からくる情的な刺激によって満たされ、人間が完全な喜びを感ずるとき、その創造本然の美が決定される。このように、創造目的を中心として、その花から感ずる喜びが完全であるとき、その花の美は絶対的である。ここに、その美の追求欲というのは、人間自身がその性相と形状とを、その対象を通じて相対的に感じようとする欲望をいうのである。また、その花の創造目的と、その花に対する人間の価値追求欲とが合致する瞬間、その対象と主体は渾然一体の状態をなすようになる。それゆえに、ある存在が創造本然の価値をもつためには、神を中心として、それとそれに対する人間主体とが渾然一体の状態となって、神の第三対象となり、四位基台をつくらなければならない。そうすれば、絶対的な価値の基準である神に対して相対的に決定された万物の創造本然の価値も絶対的なものとなるのである。今まで、ある対象の価値が絶対的なものとならず、相対的であったのは、その対象と、それに対する堕落人間との間になされる授受の関係が、神の創造理想を中心としたものでなく、サタン的な目的と欲望を中心としたものであったからである。

(二) 創造本然の知情意と創造本然の真美善
人間の心は、その作用において、知情意の三機能を発揮する。そうして人間の肉身は、その心の命令に感応して行動する。これを見ると、その肉身は心、すなわち知情意の感応体として、その行動は真美善の価値を追求するものとして表れるのである。神はどこまでも、人間の心の主体であるので、知情意の主体でもある。したがって、人間は創造本然の価値実現欲によって、心で神の本然の知情意に感応し、体でこれを行動することによって、初めてその行動は、創造本然の真美善の価値を表すようになるのである。

(三) 愛と美、善と悪、義と不義
(1) 愛 と 美
神から分立された二性の実体が、相対基準を造成して授受作用をすることにより四位基台をつくろうとするとき、それらが神の第三対象として合性一体化するために、主体が対象に授ける情的な力を愛といい、対象が主体に与える情的な力を美という。ゆえに、愛の力は動的であり、美の刺激は静的である。
神と人間について例をとれば、神は愛の主体であり、人間は美の対象である。男女については、男子は愛の主体であり、女子は美の対象である。被造世界においては、人間は愛の主体となり、万物世界は美の対象となるのである。しかし、主体と対象とが合性一体化すれば、美にも愛が、愛にも美が内包されるようになる。なぜかといえば、主体と対象とが互いに回転して一体となれば、主体も対象の立場に、対象も主体の立場に立つことができるからである。対人関係において、目上の人の愛に対して目下の人がささげる美を忠といい、父母の愛に対して子女がささげる美を孝といい、また夫の愛に対して妻がささげる美を烈という。愛と美の目的は、神から実体として分立された両性が、愛と美を授受することによって合性一体化して、神の第三対象となることによって、四位基台を造成して創造目的を達成するところにある。
つぎに、神の愛とは何であるかを調べてみることにしよう。神を中心としてその二性性相の実体対象として完成されたアダムとエバが一体となり、子女を生み殖やして、父母の愛(第一対象の愛)、夫婦の愛(第二対象の愛)、子女の愛(第三対象の愛)など、創造本然の三対象の愛を体恤することによってのみ、三対象目的を完成し、四位基台を完成した存在として、人間創造の目的を完成するようになる。このような四位基台の三対象の愛において、その主体的な愛が、まさしく神の愛なのである。それゆえ、神の愛は三対象の愛として現れ、四位基台造成のための根本的な力となるのである。したがって、四位基台は神の愛を完全に受けて、これを体恤できる完全な美の対象であり、また、完全な喜びの対象であるから、創造目的を完成した善の根本的な基台なのである。

(2) 善 と 悪
主体と対象が愛と美を良く授け、良く受けて合性一体化して神の第三対象となり、四位基台を造成して、神の創造目的を成就する行為とか、その行為の結果を善といい、サタンを中心として四位基台を造成して、神の創造目的に反する目的のための行為をなすこと、または、その行為の結果を悪というのである。
例を挙げれば、神を中心として心と体が、主体と対象の立場において、愛と美を良く授け良く受けて合性一体化し、個人的な四位基台を造成して、創造目的を完成した個性体となり、神の第一祝福を完成するようになるとき、その個性体、または、そのような個性体をつくるための行為を善という。そして、神を中心としてアダムとエバが、主体と対象の立場において、愛と美を良く授け良く受けて夫婦となり、子女を生み殖やして家庭的な四位基台を造成して、創造目的を完成した家庭をつくり、神の第二祝福を完成するようになるとき、その家庭、または、そのような家庭をつくるための行為を善という。また、個性を完成した人間が、ある事物を第二の自我として、その対象の立場に立たしめ、それと合性一体化して神の第三対象をつくり、主管的な四位基台を造成して神の第三祝福を完成するようになるとき、その事物とか、または、その事物をつくるための行為を善という。サタンを中心として四位基台を造成することによって上記のような神の三大祝福に反対の目的を成し遂げる行為、または、その行為の結果を悪というのである。

(3) 義 と 不 義
善の目的を成就していく過程において、その善の目的に役立つ生活的要素を義といい、悪(サタン)の目的を成就していく過程において、その悪の目的に役立つ生活的要素を不義という。それゆえに、善の目的を成就するためには、必然的に、義の生活を必要とするようになるので、義が善の目的を追求する理由は、すなわちここにある。

第五節 被造世界の創造過程とその成長期間
(一) 被造世界の創造過程
(二) 被造物の成長期間


(一) 被造世界の創造過程
創世記一章を見れば、天地創造は、地は形なく、むなしく、やみが淵のおもてにあり、というところで、光を創造されることから出発して、その次には、おおぞらの下の水とおおぞらの上の水とを分けられ、その次に、陸と海とを分け、続いて、植物をはじめ、魚類、鳥類、ほ乳類、人類などを創造されるのに、六日という期間を要したと記録されている。これによって、我々は被造世界の創造が終わるまで、六日という時間的な過程があったということを知るのである。ここにおいて、我々は、聖書に記録された創造の過程が、今日、科学者たちの研究による宇宙の生成過程とほぼ一致するという事実を知ることができる。科学者たちの文献によると、宇宙は初めはガス状態として、無水時代の混沌と空虚の中で天体がつくられ、降雨による有水時代になって、水でできたおおぞらが形成され、その次に、火山の噴出によって水の中に陸地が現れて、海と陸地が生成され、次には、下等の植物と動物から始まって、順次に魚類、鳥類、ほ乳類、人類が生成されたといい、地球の年齢を数十億年と推算している。今から数千年前に記録されたこの聖書の天地創造過程が、今日の科学者たちの研究したものとほぼ一致しているという事実を見るとき、我々は、この記録が神の啓示であることは間違いないということを再確認することができる。
ここにおいて、宇宙は時間性を離れて突然に生成されたものではなく、それが生成されるまでには、相当な時間を要したという事実を我々は知った。したがって、天地創造を完了するまでの六日というのは、実際は、日の出と日没の回数によって計算される六日ではなく、創造過程の六段階の期間を表示したものであることが分かる。

(二) 被造物の成長期間
被造世界の創造が終わるまで、六日、すなわち六段階の期間を要したという事実は、正に被造世界を構成している各個性体が完成されるに際しても、ある程度の期間が必要であったことを意味する。また、創世記一章にある天地創造に関する記録を見ても、その日その日の創造が終わるたびごとに、その序数日数を明らかにしているが、この日数表示によっても、我々被造物の完成にはある期間が必要であったことを知ることができるのである。すなわち、神は初めの日の創造が終わると、「夕となり、また朝となった。第一日である」(創一・5)と言われた。夕から夜が過ぎて、次の日の朝になれば、第二日であるにもかかわらず、第一日であると言われたのは、被造物が夜という成長期間を経て、朝になって完成したのち、初めて創造目的を完成した被造物として、創造理想を実現するための出発をするようになるからである。
このように、被造世界で起こるすべての現象は、必ずある程度の時間が経過したのち、初めてその結果が現れるようになる。これは被造物が創造されるとき、一定の成長期間を経て完成できるように創造されたからである。

(1) 成長期間の秩序的三段階
被造世界は神の本性相と本形状とが数理的な原則によって、実体的に展開されたものである。ここにおいて我々は、神は数理性をもっておられるということを推測できる。またさらに、神は絶対者でありながら、相対的な二性性相の中和的存在であられるので、三数的な存在である。したがって、唯一なる神に似た被造物(創一・27)はその存在様相やその運動、さらにまたその成長期間がみな三数過程を通じて現れるようになる。
したがって、神の創造目的である四位基台は、神、アダムとエバ、そして子女の繁殖という三段階の過程を通じて、初めて完成するようになる。四位基台を造成して円形運動をするには、必ず正分合の三段階の作用を経て、三対象目的をつくり、三点を通過しなければならない。ゆえに、一つの物体が定着するには、最少限三点で支持されなければならない。またこのように、すべての被造物が完成するに当たっても、その成長期間は、蘇生期、長成期、完成期の秩序的三段階を通じてのみ完成するようになる。では、自然界で三数として現れている例を挙げてみることにしよう。自然界は動物と植物と鉱物からなり、物質は気体と液体と固体の三相を表している。植物は根と幹と葉の三部分からなり、動物は頭部と胴部と四肢の三部分からなっている。
我々はまた、聖書に見られる三数の例を挙げてみることにしよう。人間は成長期間の三段階を完成できずに堕落し、創造目的を完成できなかったので、この目的を再び完成するに当たっても、この三段階を通過しなければならない。それゆえ、復帰摂理は三数を求める摂理をされた。したがって、聖書には、三数を中心とした摂理の記録が多い。父、子、聖霊の三位、楽園の三層、ルーシエル、ガブリエル、ミカエルの三天使、箱舟の三層、ノアの洪水のときの三次にわたる鳩、アブラハムの三種の供え物、イサクの献祭の三日間、モーセの三日間の闇と災い、出エジプト路程のための三日間のサタン分立期間、カナン復帰のための三次にわたる四十年期間、ヨルダンを渡る前のヨシュアを中心とするサタン分立の三日期間、イエスの三十年私生涯と三年の公生涯、三人の東方博士、彼らの三つの貢ぎ物、三弟子、三大試練、ゲッセマネでの三度の祈り、ペテロのイエスに対する三度の否認、イエスの死の前の三時間の闇と三日目の復活など、その例は数多くある。
それでは、人間始祖はいつ堕落したのだろうか。彼らは成長期間、すなわち未完成期において堕落したのである。人間がもし、完成したのちに堕落したとすれば、我々は、神の全能性を信ずることができない。仮に、人間が善の完成体になってから堕落したとすれば、善自体も不完全なものとなるのである。したがって、善の主体であられる神も、やはり不完全な方であるという結論に到達せざるを得なくなる。
創世記二章17節を見れば、神はアダムとエバに、善悪を知る木の果を取って食べるときには、きっと死ぬであろう、と警告されたみ言がある。彼らは、神の警告を聞かないで死ぬこともできるし、あるいはその警告を受け入れて、死なずに済むこともできたことから推察してみるとき、彼らがいまだ未完成期にあったことは確かである。万物世界が六日という期間を経て完成できるように創造されたので、被造物の一つである人間も、やはり、そのような原理を離れて創造される理由はないのである。
そうであるならば、人間は成長期間のどの段階で堕落したのだろうか。それは長成期の完成級で堕落したのであった。これは、人間始祖の堕落の前後の諸般の事情と、復帰摂理歴史の経緯が実証するもので、本書の前編と後編を研究することによって、そのことが明確に分かるようになるであろう。

(2) 間接主管圏
被造物が成長期にある場合には、原理自体の主管性、または自律性によって成長するようになっている。したがって、神は原理の主管者としていまし給い、被造物が原理によって成長する結果だけを見るという、間接的な主管をされるので、この期間を神の間接主管圏、または原理結果主管圏と称するのである。
万物は原理自体の主管性、または自律性により、成長期間(間接主管圏)を経過することによって完成する。けれども、人間は原理自体の主管性や自律性だけでなく、それ自身の責任分担を全うしながら、この期間を経過して完成するように創造された。すなわち、「それを取って食べると、きっと死ぬであろう」(創二・17)と言われた神のみ言を見れば、人間始祖が神のこのみ言を信じて、取って食べずに完成するか、あるいはそのみ言を信ぜずに、取って食べて堕落するかは、神の側に責任があるのではなく、人間自身の責任にかかっていたのである。したがって、人間が完成するか否かは、神の創造の能力にだけかかっていたのではなく、人間自身の責任遂行いかんによっても決定されるようになっていたのである。それゆえに、人間は神の創造主としての責任分担に対して、人間自身の責任分担を全うしながら、この成長期間(間接主管圏)をみな経過して、完成するように創造されていたのである。したがって、その責任分担については神が干渉してはならないのである。
このように、人間がそれ自身の責任分担を完遂して初めて完成されるように創造されたのは、人間が神も干渉できない責任分担を完遂することによって、神の創造性までも似るようにし、また、神の創造の偉業に加担させることによって、ちょうど創造主である神が人間を主管なさるそのごとくに、人間も創造主の立場で万物を主管することができる主人の権限をもつようにするためであった(創一・28)。人間が万物と違う点は、正にここにあるのである。
このように、人間が、自身の責任分担を完遂し、神の創造性を受け継ぐことによって、天使をはじめ、万物に対する主管性をもつようになったとき、初めて完成するようになさるために、神は間接主管圏をおいて、人間を創造されたのである。それゆえに、堕落して、このような主管性をもつことができなくなった人間たちにおいても、復帰原理によって、人間の責任分担を完遂して、サタンをはじめ、万物に対する主管性を復帰するための、間接主管圏をすべて通過しなくては、創造目的を完成することができないのである。神の救いの摂理が非常に長い期間を通じて延長してきたのは、復帰摂理を担当した中心人物たちが、神も干渉できないそれ自身の責任分担を遂行するに当たって、常に失敗を繰り返してきたからである。
キリストの十字架による救いの恩賜がいくら大きくても、人間自身がその責任分担である信仰を立てなければ、彼らを探し求めてきた救いの摂理は無為に帰せざるを得なくなる。したがって、イエスの十字架による復活の恵沢を与えてくださったのは、神の責任分担であって、それを信じるか、それとも信じないかは、あくまでも、人間自身の責任分担なのである(ヨハネ三・16、エペソ二・8、ロマ五・1)。

(3) 直接主管圏
直接主管圏とは何であり、またこれを創造された目的は、どこにあるのだろうか。神を中心として、ある主体と対象とが合性一体化して四位基台をつくり、神と心情において一体となり、主体の意のままに愛と美を完全に授受して、善の目的を完成することを直接主管という。したがって、直接主管圏とは直ちに完成圏を意味する。このように、直接主管は、あくまでも創造目的を成就するためであるので、これがなくてはならないのである。では、人間に対する神の直接主管とは、具体的にどのようなことをいうのだろうか。神を中心として、アダムとエバが完成して合性一体化し、家庭的な四位基台を造成することによって、神と心情において一体となり、神を中心としたアダムの意のままに、お互いに愛と美を完全に授受する善の生活をするようになるとき、これを神の直接主管という。このような人間は、神の心情を体恤し、神のみ旨が完全に分かって、実践するようになるので、あたかも、頭脳が、命令ならざる命令で四肢五体を動かすように、人間も、神の、命令ならざる命令により、神のみ旨のとおりに動いて、創造目的を成し遂げていくようになるのである。
つぎに我々は、万物世界に対する人間の直接主管とはいかなるものであるかを調べてみることにしよう。神を中心として完成した人間が、万物世界を対象に立てて合性一体化することによって、四位基台をつくり、神の心情を中心として一体となった人間の意のままに、人間と万物世界とが、愛と美を完全に授受して、善の目的を成し遂げることを万物に対する人間の直接主管というのである。

第六節 人間を中心とする無形実体世界と有形実体世界
(一) 無形実体世界と有形実体世界
(二) 被造世界における人間の位置
(三) 肉身と霊人体との相対的関係


(一) 無形実体世界と有形実体世界
被造世界は、神の二性性相に似た人間を標本として創造されたので、あらゆる存在は、心と体からなる人間の基本形に似ないものは一つもない(本章第一節(二)参照)。したがって、被造世界には、人間の体のような有形実体世界ばかりでなく、その主体たる人間の心のような無形実体世界もまたあるのである。これを無形実体世界というのは、我々の生理的な五官では、それを感覚することができず、霊的五官だけでしか感覚することができないからである。霊的体験によれば、この無形世界は、霊的な五官により、有形世界と全く同じく感覚できる実在世界なので、この有形、無形の二つの実体世界を総合したものを、我々は天宙と呼ぶ。
心との関係がなくては、体の行動があり得ないように、神との関係がなくては創造本然の人間の行動もあり得ない。したがって、無形世界との関係がなくては、有形世界が創造本然の価値を表すことはできないのである。ゆえに、心を知らずには、その人格が分からないように、神を知らなくては、人生の根本意義を知ることはできない。また、無形世界がいかなるものであるかを知らなくては、有形世界がいかなるものであるかを完全に知ることはできないのである。それゆえに、無形世界は主体の世界であり、有形世界は対象の世界であって、後者は前者の影のようなものである(ヘブル八・5)。有形世界で生活した人間が肉身を脱げば、その霊人体は直ちに、無形世界に行って永住するようになる。

(二) 被造世界における人間の位置
第一に、神は人間を被造世界の主管者として創造された(創一・28)。ところで被造世界は、神に対する内的な感性を備えていない。その結果、神はこの世界を直接主管なさらずに、この世界に対する感性を備えた人間を創造され、彼をして被造世界を直接主管するようになされたのである。したがって、人間を創造されるに当たって、有形世界を感じ、それを主管するようになさるために、それと同じ要素である水と土と空気で肉身を創造された。無形世界を感じ、それを主管するようになさるために、それと同じ霊的要素で、霊人体を創造された。変貌山上でのイエスの前に、既に一六〇〇余年前に亡くなったモーセと、九〇〇余年前に亡くなったエリヤが顕現したとあるが(マタイ一七・3)、これらはみな、彼らの霊人体であった。このように、有形世界を主管できる肉身と、無形世界を主管できる霊人体とから構成された人間は、有形世界と無形世界をみな主管することができるのである。
第二に、神は人間を被造世界の媒介体として、また和動の中心体として創造された。人間の肉身と霊人体が授受作用により合性一体化して、神の実体対象となるとき、有形、無形の二つの世界もまた、その人間を中心として授受作用を起こし合性一体化して、神の対象世界となる。そうすることによって、人間は二つの世界の媒介体となり、あるいは和動の中心体となる。人間は、ちょうど二つの音叉を共鳴させるときの空気のようなものである。人間はこのように、無形世界(霊界)と通ずるように創造されたので、あたかも、ラジオやテレビのように、霊界の事実をそのまま反映するようになっている。
第三に、神は人間を、天宙を総合した実体相として創造された。神はのちに創造なさる人間の性相と形状の実体的な展開として、先に被造世界を創造されたのである。したがって、霊人体の性相と形状の実体的な展開として、無形世界を創造されたので、霊人体は無形世界を総合した実体相である。また肉身の性相と形状の実体的な展開として有形世界を創造されたので、肉身は有形世界を総合した実体相となるのである。ゆえに、人間は天宙を総合した実体相となるので、しばしば人間を小宇宙という理由は、ここにあるのである。
ところが、人間が堕落し、被造世界が自己を主管してくれる主人を失ったので、ロマ書八章19節に、被造物は神の子たち(復帰された創造本然の人間)の出現を待ち望んでいると述べられている。それだけでなく、和動の中心体である人間が堕落して、有形、無形二つの世界の授受作用が切れたので、それらが一体となることができずに分離されたから、ロマ書八章22節には、被造物が嘆息している事実を明らかにしている。
イエスは霊人体と肉身をもつ完全なアダムとして降臨された方である。したがって、彼は天宙を総合した実体相であったのである。それゆえに、万物をキリストの足もとに従わせたと言われた(コリント・一五・27)。イエスは堕落人間が彼を信じ、彼と一体となって、彼と共に完成した人間とならしめるために降臨されたので、救い主であられるのである。

(三) 肉身と霊人体との相対的関係
(1) 肉身の構成とその機能
肉身は肉心(主体)と肉体(対象)の二性性相からなっている。肉心とは肉体をして生存と繁殖と保護などのための生理的な機能を維持できるように導いてくれる作用部分をいうのである。動物における本能性は、正にそれらの肉心に該当するものである。肉身が円満に成長するためには、陽性の栄養素である無形の空気と光を吸収して、陰性の栄養素である有形の物質を万物から摂取して、これらが血液を中心として完全な授受作用をしなければならない。
肉身の善行と悪行に従って、霊人体も善化あるいは悪化する。これは、肉身から霊人体にある要素を与えるからである。このように、肉身から霊人体に与えられる要素を、我々は生力要素という。我々は平素の生活において、肉身が善の行動をしたときには、心がうれしく、悪の行動をしたときには、心が不愉快さを経験するが、これは、その肉身の行動の善悪に従って、それに適応してできる生力要素が、そのまま霊人体へと回っていく証拠である。

(2) 霊人体の構成とその機能
霊人体は人間の肉身の主体として創造されたもので、霊感だけで感得され、神と直接通ずることができ、天使や無形世界を主管できる無形実体としての実存体である。霊人体はその肉身と同一の様相であり、肉身を脱いだのちには無形世界(霊界)に行って永遠に生存する。人間が永存することを念願するのは、それ自体の内に、このような永存性をもつ霊人体があるからである。
この霊人体は生心(主体)と霊体(対象)の二性性相からなっている。そして生心というのは、神が臨在される霊人体の中心部分をいうのである。霊人体は神からくる生素(陽性)と肉身からくる生力要素(陰性)の二つの要素が授受作用をする中で成長する。また霊人体は肉身から生力要素を受ける反面、逆に肉身に与える要素もあり、我々はこれを、生霊要素という。人間が神霊に接することによって、無限の喜びと新しい力を得て、持病が治っていくなど、その肉身に多くの変化を起こすようになるが、これは、その肉身が霊人体から生霊要素を受けるからである。霊人体は肉身を土台にしてのみ成長する。それゆえに、霊人体と肉身との関係は、ちょうど実と木との関係と同じである。生心の要求のままに肉心が呼応し、生心が指向する目的に従って、肉身が動くようになれば、肉身は霊人体から生霊要素を受けて善化され、それに従って、肉身は良い生力要素を霊人体に与えることができて、霊人体は善のための正常的な成長をするようになるのである。
生心の要求するものが何であるかを教えてくれるのが真理である。それゆえに、人間が真理で生心が要求するものを悟り、そのとおりに実践することによって、人間の責任分担を完遂すれば、初めて生霊要素と生力要素とがお互いに善の目的のための授受作用をするようになる。ところで、生霊要素と生力要素とは各々性相的なものと形状的なものとの関係をもっている。ゆえに、悪人においても、その本心が善を指向しているのは、その生霊要素が常に作用しているからである。けれども、人間が善なる生活をしない限り、その要素も肉身の善化のための役割をすることができないので、生力要素との間に正しい授受作用をすることもできなくなるのである。このように、霊人体はどこまでも、地上の肉身生活においてのみ完成できるのである。霊人体は肉身を土台として、生心を中心として、創造原理による秩序的三期間を通じて成長し、完成するようになっているが、蘇生期の霊人体を霊形体といい、長成期の霊人体を生命体、完成期の霊人体を生霊体という。
神を中心として、霊人体と肉身が完全な授受作用をして合性一体化することにより、四位基台を完成すれば、その霊人体は生霊体になるが、このような霊人体は無形世界のすべての事実をそのまま感ずることができる。このように、霊人体に感じられるすべての霊的な事実は、そのまま肉身に共鳴され、生理的現象として現れるので、人間はすべての霊的な事実を肉身の五官で感じて分かるようになる。生霊体を完成した人間が地上天国を実現して生活したのち、肉身を脱いで霊人として行って生活する所が、すなわち天上天国である。それゆえに、地上天国が先に実現したのち、初めて天上天国も実現できるのである。
霊人体のすべての感性も肉身生活の中で、肉身との相対的な関係によって育成されるので、人間は地上で完成され、神の愛を完全に体恤して初めて、肉身を脱いだのちのその霊人体も神の愛を完全に体恤することができるようになるのである。このように、霊人体のすべての素性は肉身のある間に形成されるので、堕落人間においては、霊人体の悪化は肉身生活の犯罪行為に由来するもので、同じく、その霊人体の善化も、肉身生活の贖罪によってのみなされる。罪悪人間を救うために、イエスが肉身をもって地上に降臨された理由はここにあるのである。それゆえに、我々は地上で善なる生活をしなければならない。したがって、救いの摂理の第一次的な目的が地上で実現されなければならないので、イエスは天国の門の鍵を地上のペテロに授けて(マタイ一六・19)、地上でつなぐことは天でもみなつながれ、地上で解くことは、天でもみな解かれるであろうと言われたのである(マタイ一八・18)。
天国でも地獄でも、霊人体がそこに行くのは、神が定めるのではなく、霊人体自身が決定するのである。人間は元来、完成すれば、神の愛を完全に呼吸できるように創造されたので、犯罪行為によってもたらされた過ちのために、この愛を完全に呼吸することができなくなった霊人体は、完全な愛の主体である神の前に立つことが、かえって苦痛となるのである。それゆえに、このような霊人体は、神の愛とは遠い距離にある地獄を自ら選択するようになる。また、霊人体は肉身を土台にしてのみ成長できるように創造されたので、霊人体の繁殖はどこまでも肉身生活による肉身の繁殖に伴ってなされる。

(3) 生心と肉心との関係から見た人間の心
生心と肉心との関係は、性相と形状との関係と同じく、それらが神を中心として授受作用をして合性一体化すれば、霊人体と肉身を合性一体化させて、創造目的を指向させる一つの作用体をつくる。これが正に人間の心である。人間は堕落し、神を知ることができなくなるに従って、善の絶対的な基準も分からなくなったが、上述のように、創造された本性により、人間の心は、常に自分が善であると考えるものを指向する。このような心を良心という。しかし、堕落人間は善の絶対的な基準を知らず、良心の絶対的な基準をも立てることができないので、善の基準を異にするに従って、良心の基準も異なるものとなり、良心を主張する人たちの間にも、しばしば闘争が起こるようになる。善を指向する心の性相的な部分を本心といい、その形状的な部分を良心という。
それゆえに、人間がその無知によって、創造本然のものと基準を異にする善を立てるようになるときにも、良心はその善を指向するが、本心はこれに反発して、良心をその本心が指向する方へと引き戻す作用をする。サタンの拘束を受けている生心と肉心が授受作用をして合性一体化すれば、人間をして悪を指向させるまた一つの作用体をつくるが、これを我々は邪心という。人間の本心や良心は、この邪心に反発し、人間をしてサタンを分立させ、神と相対することによって、悪を退け善を指向するようにさせるのである
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2011年02月09日

原理講論 総序 渋谷統一教会

人間は、何人といえども、不幸を退けて幸福を追い求め、それを得ようともがいている。個人のささいな出来事から、歴史を左右する重大な問題に至るまで、すべては結局のところ、等しく、幸福になろうとする生の表現にほかならないのである。
 それでは、幸福はいかにしたら得られるのであろうか。人間はだれでも、自己の欲望が満たされるとき、幸福を感ずるのである。しかし欲望などといえば、ややもすると我々はその本意を取り違えがちである。というのは、その欲望が概して善よりは悪の方に傾きやすい生活環境の中に、我々は生きているからである。しかしながら、我々をして不義を実らせるような欲望は、決して人間の本心からわき出づるものではない。人間の本心は、このような欲望が自分自身を不幸に陥れるものであるということをよく知っているので、悪に向かおうとする欲望を退け、善を指向する欲望に従って、本心の喜ぶ幸福を得ようと必死の努力を傾けているのである。これこそ正に、死の暗闇を押しのけて、命の光を探し求めながら、つらく、険しい人の道を彷徨する偽らざる人生の姿なのである。いったい、不義なる欲望のままに行動して、本心から喜べるような幸福を味わい得る人間がいるであろうか。このような欲望を満たすたびごとに、人間はだれしも良心の呵責を受け、苦悶するようになるのである。その子供に悪いことを教える父母がいるであろうか。その子弟を不義に導く教師がいるであろうか。だれしも悪を憎み、善を立てようとするのは、万人共通の本心の発露なのである。
 とりわけ、このような本心の指向する欲望に従って、善を行おうと身もだえする努力の生活こそ、ほかならぬ修道者たちの生活である。しかしながら、有史以来、ひたすらにその本心のみに従って生きることのできた人間は一人もいなかった。それゆえ、聖書には「義人はいない、ひとりもいない。悟りのある人はいない、神を求める人はいない」(ロマ三・10、11)と記されているのである。また人間のこのような悲惨な姿に直面したパウロは「わたしは、内なる人としては神の律法を喜んでいるが、わたしの肢体には別の律法があって、わたしの心の法則に対して戦いをいどみ、そして、肢体に存在する罪の法則の中に、わたしをとりこにしているのを見る。わたしは、なんというみじめな人間なのだろう」(ロマ七・22〜24)と慨嘆したのであった。ここにおいて、我々は、善の欲望を成就しようとする本心の指向性と、これに反する悪の欲望を達成させようとする邪心の指向性とが、同一の個体の中でそれぞれ相反する目的を指向して、互いに熾烈な闘争を展開するという、人間の矛盾性を発見するのである。存在するものが、いかなるものであっても、それ自体の内部に矛盾性をもつようになれば、破壊されざるを得ない。したがって、このような矛盾性をもつようになった人間は、正に破滅状態に陥っているということができる。ところで、このような人間の矛盾性は、人間が地上に初めて生を享けたときからあったものとは、到底考えられない。なぜかといえば、いかなる存在でも、矛盾性を内包したままでは、生成することさえも不可能だからである。もし人間が、地上に生を享ける以前から、既にこのような矛盾性を内包せざるを得ないような、運命的な存在であったとすれば、生まれるというそのこと自体不可能であったといえよう。したがって、人間がもっているこのような矛盾性は、後天的に生じたものだと見なければなるまい。人間のこのような破滅状態のことを、キリスト教では、堕落と呼ぶのである。
このような観点から見るとき、我々は、人間は堕落したのだという結論に到達する。と同時に、だれしもこの結論に対しては反駁する余地がないということをもまた知るのである。人間は、このように堕落して自己破滅に瀕しているということを知っているがゆえに、邪心からくる悪の欲望を取り除き、本心から生じてくる善の欲望に従って、一つの目的を指向することによって、それ自体の矛盾性を除去しようと、必死の努力をしているのである。しかし、悲しいかな、我々は、その究極において、善と悪とがそもそもいかなるものなのかという問題を解くことができずにいるのである。例えば、有神論と無神論とについて考えるとき、二つのうちいずれか一つを善と見なせば、他の一つは悪ということになるのであるが、我々はいまだどちらが正しいかということに対する絶対的な定説をもっていないのである。いわんや、人間は、善の欲望を生ぜしめる本心というものがそもそもいかなるものなのか、また、この本心に反して悪の欲望を起こさしめる邪心というものがいったいどこから生じてくるものなのか、さらにまた、人間にこのような矛盾性をもたしめ、破滅を招来せしめるその根本原因はいったい何なのかなどという問題に対しては、全く無知なのである。それゆえ、我々が悪の欲望を抑え、善の欲望に従い、本心が指向する善の生活をなすためには、この無知を完全に克服して、善悪を判別できるようにならなければならないのである。
 人間の堕落を知的な面から見れば、それはとりもなおさず、我々人間が無知に陥ったということを意味するのである。ところで、人間は、心と体との内外両面からなっているので、知的な面においても、内外両面の知をもっているわけである。したがって、無知にも、内的な無知と外的な無知との二種類がある。内的な無知とは、宗教的にいえば、霊的無知をいうのであって、人間はどこから来たのか、生の目的とは何か、死後はいったいどうなるのか、更に進んで、来世や神などというものは果たして存在するのか、また既に述べたように、善とか悪とかいうものはいったい何なのかなどという問題に対する無知をいうのである。また、もう一つの外的な無知とは、人間の肉身をはじめとする自然界に対する無知をいうのであり、すべての物質世界の根本は何であるか、また、それらのすべての現象は各々どのような法則によって生ずるのか、という問題などに対する無知をいうのである。人間は有史以来今日に至るまで、休むことなく、無知から知へと、無知を克服しようとして真理を探し求めてきた。その際、内的無知を克服して内的知に至る道を見いだすべく内的真理を探求してきたのがすなわち宗教であり、外的無知を克服して外的知への道を見いだすべく外的真理を探求してきたのが科学なのである。このような角度から理解すれば、宗教と科学とは、人生の両面の無知を克服して両面の知に至る道を見いだすべく両面の真理をそれぞれ探求する手段であったということを知ることができるのである。それゆえに、人間がこのような無知から完全に解放されて、本心の欲望が指向する善の方向へのみ進み、永遠の幸福を獲得するためには、宗教と科学とが統一された一つの課題として解決され、内外両面の真理が相通ずるようにならなければならないのである。
 実際の人生の行路において、人間が歩んできた過程を二つに大別してみると、その一つは、物質による結果の世界において、人生の根本問題を解決しようとする道である。このような道を至上のものと考えて歩んできた人々は、極度に発達した科学の前に屈伏し、科学の万能と物質的な幸福とを誇りとしている。しかし人間は、果たして、このような肉身を中心とした外的な条件のみで、完全なる幸福を得ることができるであろうか。科学の発達が極めて安楽な社会環境を築き、しかもその中において、人間が、極度の富貴と栄華とを楽しむことができるとしても、これだけで、果たして人間のその内的な精神的欲求までも、完全に満たし得るであろうか。肉身の快楽にふける俗人の喜びと、清貧を楽しむ道人の喜びとは、全く比べものにならない。王宮の栄耀栄華をかなぐり捨てて、心の住み家を探し求め、所定めぬ求道の行脚を楽しむのは、釈迦一人に限ったことではない。心があって初めて完全な人間となり得るように、喜びにおいても、心の喜びがあって初めて、肉身の喜びも完全なものとなるのである。今ここに肉身の快楽を求めて、科学の帆を揚げ、物質世界を航海する一人の船頭がいるとしよう。彼が理想とするその岸に到達したとする。しかし、同時にそこが彼の肉身を埋めねばならない墓場であるということを彼は知るに至るであろう。それでは、科学が真に行くべきところはどこであろうか。今までの科学の研究対象は、内的な原因の世界ではなく、外的な結果の世界であった。本質の世界ではなくして、現象の世界であった。しかし、今日に至っては、科学の対象は、外的な結果的な現象の世界から内的な原因的な本質の世界へと、その次元を高めなければならない段階に入ってきているのである。ゆえに、その原因的な心霊世界に対する論理、すなわち内的な真理なくしては、結果的な実体世界に対する科学、すなわち外的な真理も、その究極的な目的を達成することはできないという結論を得るに至ったのである。今や、科学の帆を揚げて外的な真理の航海を終えた船頭が、今また一つ宗教の帆を掲げて、内的な真理の航路へとその舳先を変えるとき、ここに初めて本心が指向する理想郷へと航海を進めていくことができるのである。
 人間が歩んできたいま一つの過程は、結果的な現象世界を超越して、原因的な本質世界において、人生の根本問題を解決しようとする道であった。この道を歩んできたこれまでの哲学や宗教が多大の貢献をなしたことは事実である。しかしながらその反面、それらが我々にあまりにも多くの精神的な重荷を負わせてきたということも、また否定することのできない事実であろう。歴史上に現れたすべての哲人、聖賢たちは、人生の行くべき道を見いだすべく、それぞれその時代において、先駆的な開拓の道に立たされたのであるが、彼らが成し遂げた業績はすべて、今日の我々にとってはかえって重荷となってしまっているのである。このことについて我々はもう一度冷静になって考えてみる必要があるのではなかろうか。哲人の中のだれが我々の苦悶を最終的に解決してくれたであろうか。聖賢の中のだれが人生と宇宙の根本問題を解決し、我々の歩むべき道を明確に示してくれたであろうか。彼らが提示した主義や思想は、むしろ我々が解決して歩まなければならない種々様々の懐疑と、数多くの課題とを提起したにすぎなかったのである。そうして、あらゆる宗教は、暗中模索していたそれぞれの時代の数多くの心霊の行く手を照らしだしていた蘇生の光を、時の流れとともにいつしか失ってしまい、今やそのかすかな残光のみが、彼らの残骸を見苦しく照らしているにすぎないのである。
 すべての人類の救済を標榜して、二〇〇〇年の歴史の渦巻の中で成長し、今や世界的な版図をもつようになったキリスト教の歴史を取りあげてみよう。ローマ帝国のあの残虐無道の迫害の中にあっても、むしろますます力強く命の光を燃え立たせ、ローマ人たちをして、十字架につけられたイエスの死の前にひざまずかせた、あのキリストの精神は、その後どうなったのであろうか。悲しいかな、中世封建社会は、キリスト教を生きながらにして埋葬してしまったのである。この墓場の中から、新しい命を絶叫する宗教改革ののろしは空高く輝きはじめたのであったが、しかし、その光も激動する暗黒の波を支えきることはできなかった。初代教会の愛が消え、資本主義の財欲の嵐が、全ヨーロッパのキリスト教社会を吹き荒らし、飢餓に苦しむ数多くの庶民たちが貧民窟から泣き叫ぶとき、彼らに対する救いの喊声は、天からではなく地から聞こえてきたのであった。これがすなわち共産主義である。神の愛を叫びつつ出発したキリスト教が、その叫び声のみを残して初代教会の残骸と化してしまったとき、このように無慈悲な世界に神のいるはずがあろうかと、反旗を翻 す者たちが現れたとしても無理からぬことである。このようにして現れたのが唯物思想であった。かくしてキリスト教社会は唯物思想の温床となったのである。共産主義はこの温床から良い肥料を吸収しながら、すくすくと成長していった。彼らの実践を凌駕する力をもたず、彼らの理論を克服できる真理を提示し得なかったキリスト教は、共産主義が自己の懐から芽生え、育ち、その版図を世界的に広めていく有様を眼前に眺めながらも、手を束ねたまま、何らの対策も講ずることができなかったのである。これは甚だ寒心に堪えないことであった。のみならず、すべての人類はみな同じ父母から生まれた子孫であるという教理に従って、それを教え、かつ信じているキリスト教国家の国民たちが、皮膚の色が違うというただそれだけの理由をもって、その兄弟たちと生活を同じくすることができないという現実は、キリストのみ言に対する実践力が失われ、灰色に塗られた墓場のごとく形式化してしまった現下のキリスト教の実情を、そのまま浮き彫りにする代表的な例だということができよう。
 しかし、このような社会的な悲劇は、人間の努力いかんによって、あるいは終わらせることができるかもしれない。けれども、人間の努力をもってしては、いかんともなし得ない社会悪が一つある。それは、淫乱の弊害である。キリスト教の教理では、これはすべての罪の中でも最も大きな罪として取り扱われているのであるが、しかし、今日のキリスト教社会が、現代人が陥っていくこの淪落への道を防ぐことができずにいるということは、何よりもまた嘆かわしい実情といわなければなるまい。今日のキリスト教が、そのような世代の激流の中で、混乱し、分裂し、背倫の渦の中に巻きこまれていこうとする数多くの命に対して、手を束ねたまま何らの対策をも立てることができないというこの現実は、いったい何を意味するのであろうか。それは、従来のキリスト教が、現代の人類に対する救いの摂理において、いかに無能な立場に立っているかという事実を如実に証明するものと見なければならないのである。
 それでは、内的な真理を探し求めてきた宗教人たちが、その本来の使命を全うすることができなくなった原因は、いったいどこにあるのだろうか。本質世界と現象世界との関係は、例えていうならば、心と体との関係に等しく、原因的なものと結果的なもの、内的なものと外的なもの、そして、主体的なものと対象的なものとの関係をもっているのである。心と体とが完全に一つになってこそ完全なる人格をつくることができるように、本質と現象との二つの世界も、それらが完全に合致して初めて、理想世界をつくることができるのである。それゆえ、心と体との関係と同じく、本質世界を離れた現象世界はあり得ず、現象世界を離れた本質世界もあり得ないのである。したがって、現実を離れた来世はあり得ないがゆえに、真の肉身の幸福なくしては、その心霊的な喜びもあり得ないのである。しかしながら、今日までの宗教は来世を探し求めるために、現実を必死になって否定し、心霊的な喜びのために、肉身の幸福を蔑視してきたのである。しかしながら、いかに否定しようとしても否定できない現実と、離れようとしても離れることができず影のように付きまとう肉身的な幸福への欲望が、執拗に修道者たちを苦悩の谷底へと引きずっていくのである。ここにおいて、我々は、宗教人たちの修道の生活の中にも、このような矛盾性のあることを発見するのである。このような矛盾性を内包した修道生活の破滅、これがとりもなおさず今日の宗教人たちの生態なのである。このように、自家撞着を打開できないところに、現代の宗教が無能化してしまった主要な原因があると思われるのである。
 さて、宗教が、このような運命の道をたどるようになったのには、更にもう一つの重要な原因があるのである。それは、科学の発達に伴い、人間の知性が最高度に啓発された結果、現代人はすべての事物に対して科学的な認識を必要とするようになったにもかかわらず、旧態依然たる宗教の教理には、科学的な解明が全面的に欠如しているという事実である。すなわち、既に述べたように、内的な真理と外的な真理とが、いまだに一致点に到達できていないというところに、その原因があるのである。宗教の究極的な目的は、まず心をもって信じ、それを実践することによって初めて達成されるのである。ところで、信ずるということは、知ることなしにはあり得ないことである。我々が聖書を研究するのも、結局は真理を知ることによって信仰を立てるためであり、イエスが様々の奇跡を行われたというのも、彼がメシヤであることを知らせて、信じさせるためであった。ここにおいて、知るということは、すなわち、認識するということを意味するのであるが、人間は、あくまでも論理的であると同時に、実証的なもの、すなわち科学的なものでなければ、真に認識するということはできないので、結局、宗教も科学的なものでない限り、よく知ってそれから信ずるということが不可能となり、宗教の目的を達成することはできないという結論に到達するのである。このように、内的真理にも論証的な解明が必要となり、宗教は長い歴史の期間を通じて、それ自体が科学的に解明できる時代を追求してきたのである。
 このように、宗教と科学とは、人生の両面の無知を打開するための使命を、各々分担して出発したがゆえに、その過程においては、それらが互いに衝突して、妥協し難い様相を呈したのであるが、人間がこの両面の無知を完全に克服して、本心の要求する善の目的を完全に成就するためには、いつかは、科学を探し求めてきた宗教と、宗教を探し求めてきた科学とを、統一された一つの課題として解決することのできる、新しい真理が現れなければならないのである。
 新しい真理が現れなければならないという主張は、宗教人たち、特にキリスト教信徒たちにとっては、理解し難いことのように思われるかもしれない。なぜなら、彼らは、彼らのもっている聖書が、それ自体で完全無欠なものだと考えているからである。もちろん、真理は唯一であり、永遠不変にして、絶対的なものである。しかし、聖書は真理それ自体ではなく、真理を教示してくれる一つの教科書として、時代の流れとともに、漸次高められてきた心霊と知能の程度に応じて、各時代の人々に与えられたものであるために、その真理を教示する範囲とか、それを表現する程度や方法においては、時代によって変わらざるを得ないのである。したがって、我々はこのような性格をもっている教科書そのものを、不動のものとして絶対視してはならないのである(前編第三章第五節参照)。既に述べたように、人間がその本心の指向性によって神を求め、善の目的を成就するために必要な一つの手段として生まれてきたのが宗教であるとするならば、あらゆる宗教の目的は、同一のものでなければならない。しかし、それぞれの宗教の使命分野は、民族により、あるいは時代によってそれぞれ異なるものであり、それに伴って、上述のごとき理由から、その教典も各々異なるものとなってしまったので、各種各様の宗教が生まれるようになったのである。すなわち、教典というものは、真理の光を照らしだすともしびのようなものであり、周囲を照らすというその使命は同一であっても、それ以上に明るいともしびが現れたときには、それを機として、古いともしびの使命は終わるのである。既に論じたように、今日のいかなる宗教も、現世の人々を、死の影の谷間より命の光のもとへと導き返すだけの能力をもっていないということになれば、今や新たな光を発する新しい真理が現れなければならないといえるのである。このような新しい真理のみ言がやがて与えられるということは、聖書の中にも数多く記録されている(前編第三章第五節参照)。
 それでは、その新しい真理は、いかなる使命を果たさなければならないのであろうか。この真理はまず、既に論じたように、宗教が探し求めてきた内的真理と科学が探し求めてきた外的真理とを、統一された一つの課題として解決し、それによってすべての人々が、内外両面の無知を完全に克服し、内外両面の知に至ることができるようなものでなければならない。また、堕落人間をして、邪心が指向する悪への道を遮り、本心の追求する善の目的を成就せしめることによって、善悪両面への指向性をもっている人間の矛盾性と、前述のような、宗教人たちが当面している修道の生活の矛盾性とを、克服できるようなものでなければならない。堕落人間にとって、「知ること」は命の光であり、また蘇生のための力でもある。そして、無知は死の影であり、また破滅の要素ともなるのである。無知からはいかなる情緒をも生じ得ない。また、無知と無情緒からはいかなる意志も生ずることはできないのである。人間において、知情意がその役割を果たすことができなくなれば、そこから人間らしい、人間の生活が開かれるはずはない。人間が、根本的に、神を離れては生きられないようにつくられているとすれば、神に対する無知は、人生をどれだけ悲惨な道に追いやることになるであろうか。しかし、神の実在性に対しては、聖書をいかに詳しく読んでみても、明確に知る由がない。ましてや神の心情についてはなおさらである。それゆえ、この新しい真理は、神の実在性に関することはいうまでもなく、神の創造の心情をはじめとして、神が御自身に対して反逆する堕落人間を見捨てることができず、悠久なる歴史の期間を通して彼らを救おうとして心を尽くしてこられた悲しい心情をも、我々に教えることのできるものでなければならない。
 善と悪との二筋道を指向する人間たちの相克をはらんだ生活によって形成されてきた人類歴史は、ほとんど闘争に明け、闘争に暮れてきた。その闘いは、財物を奪いあい、土地を奪いあい、人間を奪いあうなどの外的な闘争であった。しかし今日に至っては、このような外的な闘いは、漸次、終わりつつあるのである。そして、民族を差別せず、一つの所に集まり、一つの国家をつくり、今日においてはむしろ戦勝国家が植民地を解放し、彼らに列強と同等な権限を賦与して、国連加盟国とすることによって、みな等しく、世界国家の実現を企図しているのである。のみならず、不倶戴天の国際関係さえもが、一つの経済問題を中心として緩和され、更に一つの共同市場体制を形成していくという実情にある。特に今日の文化面においては、各民族の伝統的な異質性を克服して、東西両洋の距離を越えて、何らの障害もなしにお互いが交流しあっているという実情である。しかし、我々の前には、避けることのできない最後の闘いがまだ一つ残っている。それは、とりもなおさず、民主主義と共産主義との内的な理念の闘いである。彼らはお互いに恐怖すべき武器を準備して、外的な闘いを挑んではいるが、実際のところはこの内的な理念の闘いに勝利するために、心ならずもこれらの外的な武器を用いているにすぎないのである。それでは、この最終的な理念の闘いにおいて、どちらに勝利がもたらされるかといえば、神の実在を信ずるすべての人は、だれしもそれは民主主義だと答えるであろう。しかし、既に論じたように、今日の民主主義は、共産主義を屈伏せしめ得る何らの理論も実践力ももちあわせてはいないのである。ゆえに、神の救いの摂理が完全になされるためには、この新しい真理は今まで民主主義世界において主唱されてきた唯心論を新しい次元にまで昇華させ、唯物論を吸収することによって、全人類を新しい世界に導き得るものでなければならない。同時にまた、この真理は、有史以来のすべての主義や思想はもちろんのこと、あらゆる宗教までも、一つの道へと、完全に統一し得る真理でなければならないのである。
 人間が宗教を信じようとしないのは、神の実在と来世の実相とを知らないからである。いかに霊的な事実を否定する人であろうと、それらのことが科学的に証明されるならば、信じまいとしても信じざるを得ないのが人間の本性である。また、現実世界に人生の究極の目的をおく人々は、だれしも、最後にはむなしさを味わわずにはいられない。これまた人間の天性の発露であり、何人といえども避けることのできない感情である。それゆえ、新しい真理によって、神を知るようになり、霊的な事実に直面して、人生の根本目的を現実世界におくべきでなく、永遠の世界におかなければならないということを悟るとき、だれしもがこの一つの道を通じて、一つの目的地に歩み、そこで一つの兄弟姉妹として、相まみえるようになるのである。
 それでは、全人類が、一つの真理により、一つの兄弟姉妹として、一つの目的地において、相まみえるようになるとすれば、そこにおいて築かれる世界とは、どのような世界なのであろうか。この世界こそ、悠久なる歴史を通じて、人生の両面の無知から脱却しようと身もだえしてきた人類が、その暗黒から逃れでて、新しい真理の光の中で相まみえ、一つの大家族を形成していく世界なのである。ところで、真理の目的は善を成就するところにあり、そしてまた、善の本体はすなわち神であられるがゆえに、この真理によって到達する世界は、あくまでも神を父母として侍り、人々がお互いに兄弟愛に固く結ばれて生きる、そのような世界でなければならないのである。自分一人の利益のために隣人を犠牲にするときに覚える不義な満足感よりも、その良心の呵責からくる苦痛の度合いの方がはるかに大きいということを悟るときには、決してその隣人を害することができないようになるのが人間だれしもがもつ共通の感情である。それゆえ、人間がその心の深みからわき出づる真心からの兄弟愛に包まれるときには、到底その隣人に苦痛を与えるような行動はとれないのである。まして、時間と空間とを超越して自分の一挙手一投足を見ておられる神御自身が父母となられ、互いに愛することを切望されているということを実感するはずのその社会の人間は、そのような行動をとることはできない。したがって、この新しい真理が、人類の罪悪史を清算した新しい時代において建設するはずの新世界は、罪を犯そうとしても犯すことのできない世界となるのである。今まで神を信ずる信徒たちが罪を犯すことがあったのは、実は、神に対する彼らの信仰が極めて観念的であり、実感を伴うものではなかったからである。神が存在するということを実感でとらえ、罪を犯せば人間は否応なしに地獄に引かれていかなければならないという天法を十分に知るなら、そういうところで、だれがあえて罪を犯すことができようか。罪のない世界がすなわち天国であるというならば、堕落した人間が長い歴史の期間をかけて探し求めてきたそのような世界こそ、この天国でなければならないのである。そうして、この天国は、地上に現実世界として建設されるので、地上天国と呼ばれるのである。
 ここにおいて、我々は、神の救いの摂理の究極的な目的が、地上天国を建設するところにあるという結論を得た。先に、人間が堕落しているという事実と、この堕落が、人間創造以後に起こったことでなければならないという事実を明らかにしたが、今、我々が神の実在を認識した立場から見ると、人間始祖が堕落する以前、創造本然の世界において、神が建設されようとした世界が、いかなるものであったかということに対する答えは、自明だといわなければならない。そのことに関しては、前編第三章において論ずるはずであるが、その世界こそ神の創造目的が成就されるところの地上天国なのである。しかし人間は、堕落することによってこの世界をつくることができず、罪悪世界をつくり、無知に陥ってしまったために、堕落した人間は、長い歴史の期間をかけて、内外両面の真理を探し求め、無知を打開しつつ、善を指向し、絶えず神の創造本然の世界である地上天国を渇望してきたのである。我々は、ここにおいて、人類の歴史は、神の創造目的を完成した世界に復帰していく摂理歴史であるという事実を知った。したがって、その新しい真理は、堕落人間が、その創造本然の人間へと帰っていくことができるように、神が人間をはじめとして、この被造世界を創造されたその目的はいったい何であったかということを教え、復帰過程の途上にある堕落人間の究極的な目的が、いったい何であるかということを知らしめるものでなければならない。また、人間は果たして聖書に書かれているように、文字どおり、善悪を知る木の果を取って食べることによって堕落したのであろうか、それとも、もしそうでないとすれば、堕落の原因はいったいどこにあったのであろうか。完全無欠であるはずの神が、いったいどうして堕落の可能性のある人間を創造され、全知全能の神が、彼らが堕落するということを知っていながら、どうしてそれを食い止めることができなかったのか。また神はなぜその創造の権能によって、一時に罪悪人間を救うことができないのであろうか等々、実に、長い歴史の期間を通じて思索する人々の心を悩ませてきたあらゆる問題が、完全に解かれなければならないのである。
 我々が、被造世界に秘蔵されている科学性を調べていくと、それらを創造された神こそ科学の根本でなければならないと推測されるのである。ところで、人類歴史が、神の創造目的を完成した世界に復帰していく摂理歴史であるということが事実であるならば、かくのごとくあらゆる法則の主人であられる神が、このように長い復帰摂理の期間を、何らの計画もなしに無秩序にこの歴史を摂理なさるはずがない。それゆえ、人類の罪悪歴史がいかに出発し、いかなる公式的な摂理過程を経、また、いかなるかたちで終結し、いかなる世界に入るかを知るということは、我々にとって重要な問題とならざるを得ないのである。それゆえ、この新しい真理は、これらの根本問題を、一つ残らず明白に解いてくれるものでなければならない。これらの問題が明確に解明されれば、我々は歴史を計画し導いてこられた何らかの主体、すなわち、神がいまし給うということを、どうしても否定することはできなくなるのである。そうして、この歴史上に現されたあらゆる史実が、とりもなおさず、堕落人間を救おうとしてこられた神の心情の反映であったということを悟るようになるに相違ない。
 またこの新しい真理は、今日の文化圏を形成する世界的な使命を帯びているキリスト教の数多くの難解な問題を、明白に解いてくれるものでなければならない。知識人たちは、ただ単純に、イエスが神の子であり、人類の救い主であられるという程度の知識だけでは、到底満足することができないので、この問題に対するより深い意味を体得するために、今日まで、神学界において、多くの論争が展開されてきたのである。それゆえ、この新しい真理は、神とイエスと人間との間の創造原理的な関係を明らかにしてくれるものでなければならない。のみならず、今まで難解な問題と見なされてきた三位一体の問題に対しても、根本的な解明がなくてはならない。そうして、神が人類を救うに当たって、何故そのひとり子を十字架につけ、血を流さねばならなかったのかという問題も、当然解かれなければならないのである。更に加えて、イエスの十字架の代贖によって、明らかに救いを受けたと信じている人々であっても、有史以来、一人として、救い主の贖罪を必要とせずに天国へ行けるような罪のない子女を生むことができなかったという事実は、彼らが重生した以後においても、それ以前と同じく、原罪が、その子孫にそのまま遺伝されているという、有力な証拠とならざるを得ないのではなかろうか。このような実証的な事実を見るとき、十字架の代贖の限界は果たしてどのくらいまでなのかということが、大きな問題とならざるを得ない。事実、イエス以後二〇〇〇年にわたるキリスト教の歴史の期間を通じて、イエスの十字架の血によって完全に赦罪することができたと自負してきた信徒たちの数は、数え尽くせないほど多かった。しかし実際には、罪のない個人も、罪のない家庭も、罪のない社会も、一度たりとも存在したことはなかったのである。のみならず、先に論じたように、年月がたつに従って、キリストの精神は次第に衰微状態に陥っていくということが事実であるなら、今まで我々が信じてきた十字架の代贖と、完全なる贖罪との間に、結果として現れた事実の面で不一致があるというこの矛盾を、いったい何によって、またいかに合理的に説明することができようか等々、我々を窮地に追いこむ難問題が、数多く横たわっているのである。それゆえに、我々が切に待ち焦がれている新しい真理は、これらの問題に対しても明確に解答を与え得るものでなければならないのである。
 また、この真理は、イエスがなぜ再臨しなければならないのか、この再臨は、いつ、どこで、いかになされるのか、またそのときに、堕落人間の復活はどのようにしてなされるのか、天変地異が起こり、天と地とが火によって消滅すると記録されている聖書のみ言は、いったい何を意味するのか等々、象徴と比喩によって記録されている数多くの難問題を、かつてイエス御自身が直接話されたように、例えをもってではなく、だれしもが共通に理解できるように、「あからさまに」解いてくれるものでなければならない(ヨハネ一六・25)。このような真理であってこそ初めて比喩と象徴によって記されている聖句を、各人各様に解釈することによって起こる教派分裂の必然性を止揚し、それらを統一することができるのである。
 このように、人間を命の道へと導いていくこの最終的な真理は、いかなる教典や文献による総合的研究の結果からも、またいかなる人間の頭脳からも、編みだされるものではない。それゆえ、聖書に「あなたは、もう一度、多くの民族、国民、国語、王たちについて、預言せねばならない」(黙一〇・11)と記されているように、この真理は、あくまでも神の啓示をもって、我々の前に現れなければならないのである。それゆえ神は、既にこの地上に、このような人生と宇宙の根本問題を解決されるために、一人のお方を遣わし給うたのである。そのお方こそ、すなわち、文鮮明先生である。先生は、幾十星霜を、有史以来だれ一人として想像にも及ばなかった蒼茫たる無形世界をさまよい歩きつつ、神のみが記憶し給う血と汗と涙にまみれた苦難の道を歩まれた。人間として歩まなければならない最大の試練の道を、すべて歩まなければ、人類を救い得る最終的な真理を探しだすことはできないという原理を知っておられたので、先生は単身、霊界と肉界の両界にわたる億万のサタンと闘い、勝利されたのである。そうして、イエスをはじめ、楽園の多くの聖賢たちと自由に接触し、ひそかに神と霊交なさることによって、天倫の秘密を明らかにされたのである。

 ここに発表するみ言はその真理の一部分であり、今までその弟子たちが、あるいは聞き、あるいは見た範囲のものを収録したにすぎない。時が至るに従って、一層深い真理の部分が継続して発表されることを信じ、それを切に待ち望むものである。
 暗い道をさまよい歩いてきた数多くの生命が、世界の至る所でこの真理の光を浴び、蘇生していく姿を見るたびごとに、感激の涙を禁ずることができない。いちはやくこの光が、全世界に満ちあふれんことを祈ってやまないものである。


posted by キンシロウ at 15:51| Comment(0) | TrackBack(0) | 渋谷統一教会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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